2012/8/28課題 (8/28締切)
夏休み課題①(指定) イジメ問題 の分析とまとめ
みんなの夏休みの課題①を読んでみるとやはり、自殺した少年が通っていた学校の環境に問題があると主張している人が多かった。確かに、生徒の学校生活を見守っているのが先生であり、生徒の異変にいち早く気付くべきである。いじめアンケートを実施しなければ、先生はいじめに気が付かないのだろうか。生徒と先生の間で信頼関係をきちんと築いていれば、こんなアンケートなんてとらずに、生徒は助けを求められるのではないだろうか。少年の学校の先生はいじめ現場を目撃したとき、その場で口頭で注意しただけで、後はなにもしてくれなかったという。それだけではなく、少年が蹴られたり殴られたのを目撃した生徒は勇気を出して先生に報告していた。いじめられている少年を見て笑った時もあった。クラスの生徒はあきれて、なにを目撃しても報告しなくなった。どうせ言っても何もしてくれはしないと思ったみたいだ。これは教師としてあり得ないことだ。どうしてこんな教師を担任の先生と呼ばなければいけないのだろうか。学校にはいる先生は1人じゃない。それなのに、担任じゃない先生だっているのに、頼りにされなかったのは、先生に対する信頼がないからだと思う。あんな人で教師になれるのなら、教育免許は名前だけだと思ってしまうのもわからなくない。しかし、いつでも生徒の味方であるべき教師が、こんな対応力のないままでいいのだろうか。教育機関の改善を促す意見も、なかにはあったが、まさにそのとおりだと思う。先生たちも、「まさか自分のクラスはないだろう」と勝手に決めつけずにいつでも生徒の声に耳を傾け、異変に気づいてほしいと私は思う。また、お金で解決できる問題ではないとの主張もあった。私ももちろんそう思う。「いじめによって怪我をし、請求した治療費できれいに治す」、という場合ならば心に残った傷のケアに全力を尽くそうという気持ちになれる。しかし、今回の場合は、いくらお金を請求してつぎ込んでも、少年はきれいな状態で戻って来てくれない。死んでしまった人はどんな大金を使っても帰って来れない。いなくなった少年の穴をお金で埋めることなんて少年の家族にはできないことだ。それでは、加害者と思われる生徒がどう罪を償えばいいのか、という問題になる。最近、加害者3人のうち一人が転校後、暴力騒動を起こしたという情報があった。自殺の事件について反省しているように全然思われない。やはり、二度と同じ過ちを起こすことのないようきちんと反省し、社会に貢献する活動をしていくべきだと思う。また、現在いじめをしている人たちに対して、自分の体験を話し、恐ろしさを伝えるべきだ。今いじめをしている人にとってとても衝撃を受けることとなるだろう。そういった活動を通して反省を生かし、少しでもいじめが減るようにしていけばいいと思う。
いじめについてみなふかく考えていると思った『この記事を読んで、私は「なぜ生徒を対象としたアンケートで初めていじめが発覚したのかな?」と、不思議に思いました。いじめならばアンケートなどをとらなくても、周りの生徒や担任の先生が気づくはずです。アンケート調査でいじめについて生徒が否定していなかったのだから、周りの子はいじめられてる子がいると分かっていたことになります。周りの生徒もおそらく見てみぬふりをしていたのではないでしょうか?この文を読み、私は改めて人間関係も腐ったものだなと思いました。自分の友達がいじめを受けているのに見てみぬふりをするなんて、どのような神経をしているのか私には分かりません。でも、もしも実際に私の周りでいじめがあったとして、いじめている側に注意したり止めに行ったりできるか?と言われたら、おそらく私はできないと思います。私が口出ししたことで次に自分がいじめを受けるのは嫌だからです。人間みんな自分が一番であって、自分を守るために必死なんです。でも、私は本人たちに直接は言えないけど先生に言ったり、教育関係や生活、市、区など何かの機関に「助けてほしいです」ということはいくらでもできます。今回のいじめ事件では、担任の先生も市役所などの機関も相手にしなかったとのことですが、今回の大津市でのいじめをよくないと思っていた子はクラスに何人もいると思うし、誰かに助けを求めていた子だっていたと思います。その子たちが、少しでも相談しに行ける環境を作るのも政府の仕事だし、地域の仕事でもあると思います。先生は本来、一番生徒を見ていて、生徒みんなを信じていなければいけない立場だと思います。ですが今回の大津市でのいじめがあったクラスの担任の先生はどうでしょう?いじめを受けていた生徒の声もろくに聞かず。このような先生を先生と言っていいのでしょうか?人間関係とはとっても複雑で、何かきっかけがあっただけで崩れてしまうものだってあります。だからこそ、みんながみんなの気持ちを理解しあって、争いごとやいじめなく平和に生活するべきなのではないでしょうか?』新川が平和な学校だと感じている人は多いのだと分かった。でも、こんな感じの学校でもいじめがおきていることは充分に考えられるので、記事のコメントにあったが周りの人が気づくべきというのは、周りの人からしたら簡単なことではないと思う。今回の件は見て見ぬ振りという周りの人もあきらかに悪いですが・・・。また、前に見たいじめの記事ではメールなどで簡単にいじめが始まってしまい周りが気づいた時にはもう遅いという場面あるようです。さらにいまではゲーム感覚でやっている人もいるということです。
まず、いじめ問題の感想で一番印象的なのは、<The unnamed 13-year-old boy from southern Japan, who killed himself last October, suffered systematic bullying according to the survey conducted among 15 students.>に対する感想で、「学校側がいじめに気が付いていなかったというのはおかしな話だ。」「周りの生徒や先生は気づいていたはずだ。」など、いじめがあったことはアンケートを取って初めて分かったことではなく、実は取る前から分かっていたことなのではないかという意見が多くみられました。実際に、アンケートを取り情報が得られたのだから、少なくとも数人はいじめがあったことを知っていたでしょう。友達がいじめられているのに、見て見ぬふりをしていたことになります。この、「見て見ぬふり」について、「自分の友達がいじめを受けているのに見てみぬふりをするなんて、どのような神経をしているのか私には分かりません。」という意見もありました。しかし、もしも自分の周りでひどいいじめが起きていたら…もしかしたら次は自分がいじめのターゲットになってしまうのではないか、という不安から、そのいじめを一人で止めるのはとても勇気のいる行動だと思います。いじめをなくすには、生徒、先生、家族が協力することが大切なのではないかと、感想を読んで改めて思いました。全体を通してみると、「改めていじめについて考えさせられることがたくさんありました。」「このようなことがだんだん少なくなっていけばいいな、と思いました。 」「これから社会が変わっていくように活動していきたい。」など、いじめをなくしたいという前向きな意見が多くありました。
いじめについて憤りを感じている人がほとんどだと思いました。私は「なぜ生徒を対象としたアンケートで初めていじめが発覚したのかな?」と、不思議に思いました。いじめならばアンケートなどをとらなくても、周りの生徒や担任の先生が気づくはずです。と書いている人がいましたが、まったくその通りだと思いました。小さないじめだったならばまだしも、自殺してしまう生徒が出るほどのひどいいじめだったのです。どうして気付かなかったんでしょうか。私は気付かなかったのではなく、周りの生徒も担任の先生もみんな、見てみぬふりをしていたのではないかと思いました。これを書いた人は、私はは改めて人間関係も腐ったものだなと思いました。自分の友達がいじめを受けているのに見てみぬふりをするなんて、どのような神経をしているのか私には分かりません。本来、そのようなことをさせてはならない、もしあった場合は止めなければならない立場の先生が、気付かないフリをしていたというのはいけないことだと思います。いじめられ続けた結果、男子生徒は自ら命を落としてしまったのだから、いけないで済ませられることではないと思う。いじめた側が悪いのはもちろんだが、見て見ぬふりをした先生や周りの人にも責任はあると思う。でももし私が見ている立場だったら、と考えてみると私もいじめを止めに入ることなどはできないと思います。その相手や時と場合によるかもしれないけど大半の場合は逆恨みされて私がいじめられると思うからです。こういう風にいじめ問題などの記事を読んでいる分には、どうして止めなかったんだろう。と思うけれど自分がその場に立たされたらなにもできないかもしれません。それだけではなく周りの空気に流されて自分もいじめに加担してしまうかもしれません。幸い私の周りにはそういったことはあまりありませんでしたが、それはとても恐ろしいことだと思います。生きている中で、自分と合わない人がいいるというのは当然のことだと思います。でもそれを口に出して言ったり態度に出してはいけないと思います。それを実際にやってしまった今回のいじめている側が悪いのは当然ですが、そういう空気をつくらないという環境、周りの対応も大事なのではないでしょうか。今回の事件は大津市で起こりましたが、もしかしたら近くで、あるいは自分にふりかかるかもしれません。私は絶対にいじめなどしたくないし、もし私がいじめられたら、直接立ち向かうことはできなくとも友達、家族、先生、またはチャイルドラインなどを使って助けを求めたいと思います。人間関係とはとっても複雑で、何かきっかけがあっただけで崩れてしまうものだってあります。だからこそ、みんながみんなの気持ちを理解しあって、争いごとやいじめなく平和に生活するべきなのではないでしょうか?その男の子の最後の行動の一つはいじめっ子にメールを作成することだった、そして彼らに「僕は死にます。」と表明メールを残した。彼らは「お前は死ぬべきだ。」と返信した。という文があるが、その男子生徒は自殺すると決め、それを「僕は死にます」と自分をいじめていた人たちにメールをしたとき、どのような気持ちだったのでしょうか。どれだけ悩んだのでしょうか。私には到底想像がつきません。だけど簡単に決めたのではないというくらい誰にでも容易く考えられます。それに対し「お前は死ぬべきだ」と返信した彼らはきっと冗談だと思ったのだろう。確かにそう考えるのが普通かもしれない(といってはいけないと思う)が、最後まで最低だと思いました。少年の親は、日本デイリー・プレスによれば、損害賠償金7720万円を求めて、大津市政府と同様に地方の地方裁判所で、3人の学生および親を訴えています。という記事がありました。親のの気持ちを考えると損害賠償を得ただけで、満足するわけありません。親はやりきれない思い出いっぱいだったと思います。それを止めることをしなかった教師たちにも、このいじめにかかわったすべてのひとに殺意が芽生えたといっても過言ではないと思います。まだ中学生の子供を死に追いやった学生のことが許せなくて許せなくて。学生だけではなく、そんな子供に育てた親だって憎くて仕方ないと思います。いじめた側は、生きているんだから、命ある限り罪を償ったりすることができます。とコメントしている人がいましたが、私が親の立場だったならたとえ訴えて損害賠償を得ることができただけでは腹の虫がおさまらないと思います。同じ目にあわせてやりたいと思うでしょう。命ある限り罪を償うどころかその命さえなくなればいいとも思ってしまいます。これが他人だったとしてもこの人たちは死ぬべきだと思ってしまいました。こう思うことは悪いことなのでしょうか。もしそうだとしてもこの人たちが生きていることは理解できません。匿名の調査でパンチや蹴るなどといった暴力行為が亡くなった少年に対して行われていたことがわかっていると言うことは、いじめは公に行われていたことがわかります。もっと早くに周りが行動していたら亡くなった少年一人だけが苦しむこともなかったし、全国ニュースになることもなく、一人の少年が命を落とすこともなかったでしょう。「自殺した少年も少年です。誰でも理由は問わず、死にたいって思ったりすることがあると思います。私だって習い事が上手くいかなかったり友達と色々問題があったりしたら死んで楽になりたいなぁって考えたりします。だけど、ここで死んじゃえば周りに負けてしまう気がするし、なにより自分が弱い人間だと思われてしまうのが嫌だから、自分から死のうとは思いません。」とありましたが、私はそうは思いません。自殺することは悪いことではないとは言えませんし、仕方がないこととも一概には言えませんが、この少年とこの人が抱えている問題は違いすぎると思います。確かに私もいなくなってしまいたいという気持ちになることはあります。悩みがあるのは当たり前だとも思います。それに家族だっているし、自分が死んだことで悲しんでくれる人がいるわけですから、死にたくても死ねません。せっかくこの世界に生まれたのだから人生を満喫したいと私は思います。でもこの少年がされたのと同じことをされたら、今と同じ考えではいられないと思います。転向したりする選択肢もあるでしょうが、今この場で考えているように冷静な判断はできないと思います。だからといって少年が自殺したことを擁護するわけではありませんが、この意見はちょっと厳しいのではないかと感じました。
これから書くことはとても偉そうですが目をつむってください。全体的に多かった意見はなぜ警察が調べたりアンケートを取ってからいじめが発覚するのかということを疑問に思っている人が多かった、そしてみてみぬふりをしているなんて許せないという人が多かった、いじめなんて許せないという人が多かった。しかし現状はどうだろう今までにいじめを見てきた人はたくさんいると思う。そしてほとんどの人が注意なんてできなかったと思う。もしかしたらいじめに参加していた人もいると思う。自分もいじめに近いものをたくさん見てきた。そして自分はあいつの性格ならこういう行動をされても仕方ないな、そんな事をするのはさすがにひどすぎるな、ただすこしちょっかいをかけただけなのに本人は気にしすぎているな。などと感じてきた。自分が思うに理由がなく度が過ぎているものはほんとに許せないと思う。もう仕返ししてやれやとも思う。しかし理由があって避けられている嫌われているという類は自分はどうしようもなく感じる、なぜなら好きでやっているわけではないから、そして思うのはこのことははたしていじめの部類に入ってしまうのかということだ、正直いじめかいじめではないかの微妙な判断は難しい、度が過ぎているのはいじめ以外の何でもないが、すこしからかった、少し笑いものにした、これでも人の価値観によってはいじめになってしまう。でも人間というもの一人一人違う意識も行動も考え方も違う、人を知らないで傷つけてしまうことなんてたくさんあると思う。本当に今一番大事なのは、傷ついた人間を周りが励まし支えていくことだと思う。いじめをなくそうそう呼びかけるより、支えてあげよう、助けてあげようそう呼びかけていくことが本当に大事だと思う、昔の人たちは今の時代はさびしくなったという、それは温かさがないからだと思う。
いじめのあった大津市の教師は生徒のいじめに気付かないわけがない。他人事のように放っておいている。こういういじめ事件を聞くと学校の教師は信頼できなくなる。『自分の子供がいじめを受けていて「死にたい」と思ってることにすら気づかなかった親も親だと思います。子供のことをよく見ていたら、子供が傷ついていることや悩んでいることなんてわかると思います。』とあるが、もし自分が学校でいじめられても絶対に親にはばれたくないと思い何もないフリをするに違いない。きっと親に学校のことを聞かれても楽しいと嘘をつく。ふつう親には心配をかけたくないものだし、自分がいじめられていると知ったら悲しむのはわかっているからだ。だからこそ、気付いた先生にはいじめを受けている子の家に連絡をいれたりするなどの協力が必要だ。いじめの調査を拒む学校があると知って呆れてしまった。調査を拒むということは、自分の学校にいじめがあることを少しは予感してわかっていたんだろう。その学校の校長は自分がなにをしているのかわかっているのだろうか。自分が行動すれば苦しんでいる生徒が助かるかもしれないのだ。そのことをもう一度考えてほしい。
今現在起きているいじめの問題について、私は、まわりの人がもっと被害者の状態に気づいてあげたり話を聞いてあげたりすることが必要だと思った。被害者は、きっとおおごとにしたくないとか、まわりの人に心配をかけたくないとか、いじめられていることが恥ずかしいと思ってしまうことで誰にも相談できずにどんどん自分を追い込んでいってしまうんだと思う。相談すればいいのにとか思う人もいるかもしれないけど、被害者の気持ちをもっと考えてあげてほしい。そして、まわりの友達や大人が、できるだけ早く気づいてあげるべき。見て見ぬふりをするなんて論外。そこまで深く考えない人が多いだろうけど、被害者がどこまで身体的に精神的に追い詰められてるかなんてわからない。だからこそまわりが自分から、話を聞いてあげるべきだと思う。生徒が先生にいじめについて相談したのに無知なのは非常に無責任で教師としての資格がないと思った。教師は生徒一人一人を気にして、異変に気付くべきではないのか。いじめを目撃して、勇気を振り絞って報告してくれた生徒の想いはどこにいってしまうのだろう。いろんないじめを受け、何度も殴られ、何度も自殺の練習をさせられた生徒を助けてあげようという気持ちにならなかったのか。気になりもしなかったのだろうか。私は信じられない。いじめをしていた生徒も、なにがしたかったのか全くわからないが、それを見てきた生徒もどうかと思う。先生が信じられない時点でまずおかしいが、親に相談したり、いじめ専門の相談所に電話するなど、できることはたくさんあったはずだ。確かに、毎日目の前でいじめが繰り広げられ、自分が被害者になることを恐れながら先生に報告したにも関わらず、なにも変わらないとは、精神的にかなりきつい。しかし、一番苦しいのはみている人ではなく、被害者本人だ。私はいじめを受けたことも見たこともないため、実際にどのくらい苦しいものなのかははっきりとはわからない。しかし、私たちの想像を遥かに超える苦しみがそこにはあるだろう。なにもわからない私だけれど、いじめは絶対にあってはいけないということだと思うし、実際に目撃したら助けるために行動を起こすと前から決めている。自分も巻き込まれてしまったら、と思うと怖いけれど、私は学校を信じたい。これからも同じクラスの生徒や部活の仲間、先生を信じていきたいと私は思う。誰からも信頼してもらえるような学校の環境を作っていかなければ、苦しみだけが増えていってしまうだろう。加害者は、いじめて何の得があるのだろう。ストレス解消?優越感?無意味?人はものじゃない。みんな生きてる。殺したわけじゃなくても、被害者の心を殺し、身体を被害者自身に殺させている。いじめさえなければこれからの人生を楽しく生きていけたかもしれないのに。ニュースでもこれほど報じられているのに、ことの重大さがわからない人たちが今でも存在するのはなぜだろう。政治の世界でも口先だけで、行動に起こしていないというように、口ではなんとでもいうことができてしまう。ふつうはこの記事にあるように、最初から人のいうことが嘘だなんて思いながら話はしないだろう。しかし、被害者の遺族からしてみれば死を防げなかったことが事実であり言葉を信じることはできないのかもしれない。私の身近なところでいじめ問題というような大きなものはないが、ある人からすればちょっとからかったつもりでいても言われたほうにしてみれば大きなショックをうけたりそのことが悩みになってしまうこともあると思う。普段の自分の言動をもう一度確認しておきたいと思った。もし自分がいじめをうけていたらと考えると誰かに助けを求めるのはかなり勇気がいると思う。しかし、そういうときに何でも話せる関係があったり強い気持ちがあれば死という考えはおそらく生まれてこないだろう。いじめをうけて自殺してしまうという結果はだれも望まないと思うし、誰かが死んでしまって悲しむ人が誰もいないということは決してないだろう。自分のことだけではなく周りの人のことも考えてこれから生活していきたい。‘‘いじめ問題”という大きな問題をなくすことは無理なのかもしれないがよく周りを見てひとりひとりがこの問題の重大さ深刻さをわかることが大切だと思う。学校は勉強や部活を頑張る場所であるけれど、そこにいじめが存在すれば、やりたいことも楽しんですることはできないし、たとえいじめた人がいじめたことをいつか忘れてしまっても、いじめられた人は一生忘れることはできない。加害者は、それだけ自分が大変な子をしてしまっているというこに早く気づいてほしい。私もいじめは絶対に無くなってほしい。
一番多かったのは大津市のいじめについての記事だった。わたしもその記事について書いたので共感できる意見が多かった。どの意見も加害者や教師を批判し被害者に同情している部分があったと思う。学校の中で、絶対的権力を持ち、指導する立場にある教師が「いじめ」という幼稚なおふざけを止めることすらできないというのは、明らかにおかしい。それどころか、この事件だと教師はいじめに加担していたとも書いてあった。生徒は教師を信じていただろう。私が想像できないようなつらい思いをして、我慢して我慢して、もうだめだと教師に相談したのにもかかわらず聞き入れてくれなかったとき、どれほど絶望しただろう。私にはわからない。教師にも助けてもらえず、一人で戦ってきた被害者が自殺をしたことを誰が責められるだろう。自殺の責任は100%加害者にあると言える。その加害者に、教師も加わるのではないだろうか。圧倒的に悪いのは主犯格の人間だが、それでも心の拠り所があったり、もしかしたら解決するかも、ともし被害者の子が思えたとしたら、今回のような事件には繋がらなかったと思う。いじめに気付いた教師達が違う対応をしていたら・・・と考えると被害者の男の子が気の毒でならない。実際、被害者が受けた苦しみは本人にしかわからない。記事には、「自殺の練習をさせられた」「紙を無理やり飲まされた。加害者はもちろん、教師も一緒になって笑っていた」「手足を縛られ、殴る蹴るの暴行を受けた」「死んだハチを食べさせられた」など、本当に中学生の仕業かと自分の目を疑うこと酷いいじめの数々が書かれていた。これはもう「いじめ」と呼ぶべきではないと思う。普通に犯罪だ。加害者のことは絶対に許せない。人の気持ちを考えることもできない、思いやりのかけらもない。被害者が自殺をしたあとでさえ、反省の気持ちも見えない、そんな人間を許そうと思えるほうがおかしい。被害者の子はこれから夢を叶え、家族と笑い、友達と出かけ、もしかしたらなにかの社長になったり、病気をしたり、映画を見て泣いたりとか、そんな色んな可能性に溢れた未来も全部奪われてしまった。本当に、かわいそう。加害者の人達には、自分たちの一生をかけて罪を償ってほしい。
小さいいじめならまだしも、自殺してしまうほどのいじめならアンケートをとらなくても周りの生徒や担任の先生が気づいているはずだと思う。自分の個人的な意見ですが、周りの生徒も先生も絶対にいじめの実態に気がついていたはずです。それなのにこのような事態になるまで放っておいたのは、我が身可愛さからではないでしょうか。本来、生徒に勉強だけでなく生き方も教えなくてわならない教師が、正義よりも自分のことを優先しているようでは、これからの日本がダメになります。いじめをする子供を罰するよりも、そのような子供に育ててしまった親や教師などの周りの大人を変えていくべきです。今の日本の学校からすべてのいじめを無くすことは簡単なことではないと思います。ですが上辺だけの対策ではなく、しっかり芯にまで踏み込んだ対策をとれば不可能ではないと思います。これを機に国がどんな対策をとるかが重要になると思います。そして、たとえいじめられても、自殺という最悪な決断をするのではなく、命を大切にしてほしいです。生きてさえいれば絶対にいいことはあります。最後に、自分の周りにはいじめはないので、それだけでも幸せだと思います。今自分がこの新川高校で普通に生活できていること、生きて居られていることに感謝していかなければならないと思いました。
夏休みの課題として「大津市のいじめ問題」の英文を三文訳してそれについての感想を書くものだったのだが、どの人も選んだ三文の内容以外の事も書いていてみんなこの問題に対しての関心が高いなと思った。それと同時に、日本にとどまらず世界にまでこのいじめ問題が知れ渡ったことはとんでもないことであることが改めて確認できた。感想の中には、「いじめに耐えられなくなった死んでしまった少年も少年だ。」と厳しい意見をお持ちの人もいたが周りの人間が気づいてあげられなかったんじゃないかなと自分は思う。両親はもちろんのこと学校の先生や友人も、大なり小なり少年の気持ちの変化に気付けてはいなかったのだろうか。ほかに自分が関心を持った意見は「政治の世界でも口先だけで、行動に起こしていないというように、口ではなんとでもいうことができてしまう。ふつうはこの記事にあるように、最初から人のいうことが嘘だなんて思いながら話はしないだろう。しかし、被害者の遺族からしてみれば死を防げなかったことが事実であり言葉を信じることはできないのかもしれない。私の身近なところでいじめ問題というような大きなものはないが、ある人からすればちょっとからかったつもりでいても言われたほうにしてみれば大きなショックをうけたりそのことが悩みになってしまうこともあると思う。普段の自分の言動をもう一度確認しておきたいと思った。もし自分がいじめをうけていたらと考えると誰かに助けを求めるのはかなり勇気がいると思う。しかし、そういうときに何でも話せる関係があったり強い気持ちがあれば死という考えはおそらく生まれてこないだろう。いじめをうけて自殺してしまうという結果はだれも望まないと思うし、誰かが死んでしまって悲しむ人が誰もいないということは決してないだろう。自分のことだけではなく周りの人のことも考えてこれから生活していきたい。‘‘いじめ問題”という大きな問題をなくすことは無理なのかもしれないがよく周りを見てひとりひとりがこの問題の重大さ深刻さをわかることが大切だと思う。」この人の感想にもあるように、普段から周りを見て周りの人のことを考えて生活していかないと、いざ自分がいじめられる立場になった時に相談できるような人を見つけることも出来ずに一人で抱え込んでしまうし、普段の生活の中でも自分主義だと、困っている人やいじめられて死のうとしているような人を見つけるのは難しい。誰かの意見にもあったがいじめをなくすのは難しいが、一人ひとりの気持ちの持ちようでは減らすことはできる。遊んでいて友人をからかったりしたとき、いやな顔をしてもヒトの気持ちを考えずに続けて、自分が気づかないうちにいじめに発展しているという可能性は低くはないと思う。だからこの事件から「いじめは絶対にしない」「周りを見て行動し、困っている人、深刻な顔をしている人には声をかけてみる。自分主義ではいけない」「まわりの人もいじめられている人、悩んでいる人の気持ちの変化に気づいてあげる」ということを学習し、教訓にしてもうこのような残酷な事件が起こらないようにしていくことが私たちの課題になる。
夏休みの課題を見て、全体の傾向をあげるとすると、いじめに対して良い印象を持っている人は誰もいなかったということだ。中にこういう文があった。《せっかく、学校という“たくさんの人と触れ合い、学びあい、自分を育てる”ことに最適な場所に毎日のように通うことが出来ているのだから、その日々が楽しいものであって欲しいし、親からしても子供に毎日「学校楽しかった!今日はこんなことがあって、」と話してもらえることが嬉しいはずである。しかし学校にいじめがあれば、朝起きて登校することが憂鬱になり、登校したとしても活発に動くことができず、自分自身を育んでいくことすら出来ないだろう。それならば学校に行く意味がない。これからの未来、というより今この瞬間から、安心して楽しい気分で生活できる学校が日本に溢れればいいなと思う。》自分はこの文に対して共感した。学校という教育の場にいじめというものがあるだけで、毎日楽しくない思いをしている人がいる。学校は、教育の場であり、友好関係を持つことができる場でもあると思う。そんな中で苦しい思いを持つ人がいるのは、学校として成り立っていないようなものだと思う。ただ勉強するだけなら学校ではないだろうと自分は考える。部活などもそうだが、いろいろな人とふれあい、そこで人間関係なども学び、社会に通用する人間となって旅立っていくための学校で、前向きに取り組むことができなくなった生徒は、すべてがマイナスになる。いわゆる落ちこぼれということだ。そういう生徒を作り上げる学校は教育機関として失格だ。これからもいじめ問題が続いていくのかもしれないが、今回の大きな事件を機に全国、世界が変わっていくことを願う。この課題を見て、他人事のように思っている人も中には居たが、そういう人がいるという時点でまだ影響されていないのかなと思った。やはり今回の事件は滋賀県の大津市ということで北海道からは遠いところで起きた事件だ。身近で起きれば警戒するのかもしれないが、こんな考えでいては、全体の考えも変わっていかない。これから全体的に変えていくためには一人ひとりがどのように考えが変わるかが大事だ。今、テレビなどでも大々的に取り上げられているいじめ問題がカギを握っているだろうと思う。もっといじめというものに面と向き合っていったほうがよい。どんどん広告などを使って今の現状を伝えていくことが大事だ。それらがどれほど深刻なのかを知った人達はどう変わるかは本人しだいだと思うが、いじめ問題が良いように感じ取る人はさすがにいないだろう。誰もがいじめはよくないと思うに違いない。そう思えるだけでいじめ問題について関心を持ってもらうことができて、少しずつ減っていくだろうと思った。身近で起きてからでは絶対に遅い。そのようにならないためにも早めの行動でしっかりと対策することから徹底的に始めていくべき。現在いじめられている人がいるならば、一人で抱え込んで最悪自殺ということにならないようにしっかりと相談していくということを早めにしてほしい。もしもいじめている人がいるなら、いじめられている人の立場に自分がなったことを考えてみると、どれほどいやなことなのかが分かる。大事に思う両親もいる。相手のことをしっかりと考えてすぐにやめてほしい。これからの世界にいじめという言葉自体無くなってくれればいいなと思った。
Last February, his parents filed a damages suit against the city of Otsu and theclassmates who allegedly abused him, claiming the suicide was caused by the bullying.(この2月、乙と言われる都市では彼を虐待した同級生に対して、彼の両親は損害賠償訴訟を起こしました。そして、自殺がいじめに起因したと主張しました。)この文章を読み思ったことは、損害賠償訴訟についてです。このような事件が起きて損害賠償そ請求するのは普通のことなのかもしれません。でも私にとってはその意味に不思議に思うことがあります。人の命は、お金で変えることができるのかと。加害者の母親が、被害者の家族にたいし損害賠償したとしても本当に心から申し訳ないと思っているのか。疑問が残ります。それにどれだけの額を払ったとしてももうその被害者は帰ってきません。お金って怖いものだなと思います。私はそんな金ならいらないんじゃないかと、ふと考えたりもしました。この記事を読む課題でよかったと思いました。これ以外の文章も読んだりしていて、改めていじめについて考えさせられることがたくさんありました。お金、成績、運動神経、いじめの引き金になるものはいろいろあるけれど、お金ほど人を変えてしまうものはないと思います。お金って、本当に恐ろしいですね。こんなことでは、親も安心して子供を学校に通わせられません。いじめをなくす。この望みは、学校に通う私たちにとってはもちろんだし、子供を通わせる親にとっても切実な望みであると思う。せっかく、学校という“たくさんの人と触れ合い、学びあい、自分を育てる”ことに最適な場所に毎日のように通うことが出来ているのだから、その日々が楽しいものであって欲しいし、親からしても子供に毎日「学校楽しかった!今日はこんなことがあって、」と話してもらえることが嬉しいはずである。しかし学校にいじめがあれば、朝起きて登校することが憂鬱になり、登校したとしても活発に動くことができず、自分自身を育んでいくことすら出来ないだろう。それならば学校に行く意味がない。これからの未来、というより今この瞬間から、安心して楽しい気分で生活できる学校が日本に溢れればいいなと思う。いじめがなくなること、それは不可能かもしれません。わたしが加害者の立場、考え方を理解できないように、彼らもおそらくいじめられる側のことを理解できないのでしょう。しかし、私は思います。いじめをなくすことは無理でも、それによって自殺してしまうほど追い詰められる状況は避けられるのではないかと。例えばわたしがいじめられたことがあるかというとそうではありません。しかし孤独を感じ、寂しいような思いをすることはあります。そしてそれは普通のことではないでしょうか。ここでいう孤独こそ、人を追い詰めてしまう最後のきっかけになりうるんだと思います。だからこそ、放っておいては絶対にいけない。終わってからでは、何もかも遅い・・。今も、いろいろたくさんの論議がなされています。中には、「自殺じゃなくて本当の殺人じゃないのか?」だとか、「教育委員会や警察は隠蔽をしている」、「〇〇(加害者の名前、もはやネットでは横行している)は転校してからなにかやらかした?」など、憶測や本当かどうかわからない情報が飛び交っています。それだけ人々の注目を浴びているというわけですが、少年はもう死んでしまったのですから、もはや彼の気持ちを知ることは出来ません。・・私はいじめを絶対に許さないとともに、もしこれからの少ない学生生活でその影があれば、対処に全力を注ぎます。自分の高校は関係ないなどと言っていられるでしょうか?否、どこでも起こりうることであると思います。しかしまともな奴がひとりでも、そいつの助けになれれば変わります。そう信じて、これから過ごしていきます。
この頃いじめ問題が騒がれていますが、やっぱりいじめはとてもいけないことだと思いました。いじめをした生徒を考えると、なぜいじめたのかわからない。いじめられる人の気持ちが考えられなかったのか。やめるきっかけはなかったのか、と思います。多分最初は面白半分でやっていたと思うが、それが楽しくなってきてここまでエスカレートしたのだろう。でも、いじめる方はいつも冗談であっても、いじめられる方はいつも本気だという事を知ってほしい。いじめられた生徒を考えると、なぜ相談できなかったのか。死ぬという選択肢は間違いだと思わなかったのか。家族が悲しむことを考えれなかったのか、と思います。相談しなかったのは多分親がそれを知って悲しむのが嫌だったんだと思う。だとしても死ぬのは間違いだ。生きていれば楽しいことはあっただろうし、死ぬことで親はとても悲しむことにもなるからだ。担任の先生はなぜ気付かなかったのだろう。というよりかは、気付いていたけど何もしなかったのかもしれない。どちらにせよ先生としてここまでのことを気付かなかったのは駄目なことだ。親はどうだろう。親も気付けないとおかしいと思う。家では平静を装ってたかもしれないけど、自殺まで行くのなら多少元気がないだとかあったはずだ。それに気付かなかったのは親として駄目だと思う。いじめっ子の親はこんな子供を育てるということはなにか育て方に問題があったと思う。もっと家族とかかわらせて、正しい考え方を身につかせるべきだと思う。このいじめ問題を通して、家族とのかかわり方がよくないと、正しい判断力がつかなくなったり、人の気持ちを察することができない人間、自分勝手な人間になってしまうと思った。
僕はやはりいじめはどんな理由があってもしてはいけないことだと思います。同じ人間を傷つけて何がしたいのでしょうか?何が楽しいのでしょうか?僕にはさっぱり理解できません。よくいじめていた側の人が「いじめているつもりは無かった、遊びのつもりだった」などと言いますがいじめられている人がいじめだと感じたらそれはもういじめだと思います。さらに最近のいじめの理由がくだらない理由ばかりのような気がします。暗いから、不潔だから、気持ち悪いから、弱いからなど理不尽すぎるいじめの理由が増えてきたと思います。しまいにはなんとなくいじめたなどと理由があります。そんな気持ちでいじめる人の意味がわかりません。いじめている側に罪悪感はないのでしょうか?そんな理由でのいじめで自殺する人だって少なくありません。もしいじめられている人が自殺したらいじめていた側の人は責任をとることができるのでしょうか?死んでから罪悪感を感じたって遅いのです。肩書きは自殺ですがいじめていた人が殺したのと一緒なのです。ようはいじめていた人は殺人者と一緒なのです。そして最近ではいじめを注意できない教師が出てきていることもいじめ増加につながっています。教師は明らかにいじめを知っているはずなのに注意しない、できないような世の中になってくるといじめを受けている生徒側はもう誰も信じられなくなると思います。そのせいで不登校になる生徒もいるのではないでしょうか。学校長もよく会見で「いじめを把握していなかった。」と言いますが全部がほんとではないと思います。これらから最近のいじめ問題は子供の問題ももちろんですが大人の問題でもあると思うので大人の皆さんにはそのへんを十分に理解してほしいなと思います。
私は今回提出課題①について傾向を調べましたが、やはりいじめに対して強く怒りを覚えた人が多かったように思えます。自分も記事を読んでいてかなり怒りを覚えたのも事実です。いじめが起こっているとわかっているのに学校側は何の対応もしていなかったり、見て見ぬふりをしていたりとあってはならないことばかり起きています。Police are finally investigating the suicide of a 13-year-old boy last year in Otsu, Shiga Prefecture, for evidence of bullying, but another father whose son took his own life believes it is too little, too late and doubts the government is taking such tragedies seriously. (警察はついに、昨年、滋賀県の大津市の13歳の男子の自殺で、いじめの証拠について調査している。しかし一方で自殺した息子の父親は、息子の命は短いと信じていた。また政府がその悲劇的事件に取り掛かるのが遅いと疑った。)私は、この記事を読んでなぜ一年前の出来事が今更明るみになっているのかと疑問に思いました。それと同時に、日本の政府が、助けてあげないといけなかった命を見てみぬ振りしていたこと、亡くなってからも加害者側に追求したり、処置をとらずただ単に大問題になるまで放置していたことに怒りを覚えました。亡くなった生徒の父親の気持ちを考えると大変遺憾です。この意見を読んで共感するとともに、何もしない日本政府に怒りを覚えました。一年前の事件なのにその問題を放置して大問題にまで発展させる。さらには加害者側にも追求しつずける。いったい日本政府は何をしているのでしょうか?私は事件がわかったならそれを一刻も早くそのような事件が起きないように全国に呼びかけをしたりするなどなにか行動を起こし、ずっと加害者に追求するなど足踏みのようなことはせず、被害者側も納得するような対策を立てていくべきなのではないかと思います。滋賀県でも悲劇的ないじめの事件が起きました。内容も今までにないような残酷でえげつないものでありました。これに対して日本政府は迅速に被害者側が納得するような対策を取らなければ、またおなじような過ちを犯すのではないかと思います。もしそのようなことがまた起きたならば、いじめはまた悪化していくのではないかと私は考えます。いじめは起こしてはいけないことですが、起こってしまった場合どのような被害者側が納得するような対策を立てることが重要になってくと思うので、放置などはしないでの日本全体の問題であるという意識を高く持って、対応していってほしい。また周りで起こっている小さないじめでも目をそらさずに、日本国民全員でいじめをなくしていければなと願っています。
「いじめならばアンケートなどをとらなくても、周りの生徒や担任の先生が気づくはずです。」という言葉を読んで、「全くその通りだなあ。」と思いました。アンケートを取らなくとも、周囲の生徒や教師、親などが気付けるはずです。生徒一人一人を視野に入れて教育する立場にいる教師や毎日、何年もともに生活してきた両親(子供に関心が無いのなら話はまた別に変ってしまうが)は子供の違和感に気付いてほしい。「私は改めて人間関係も腐ったものだなと思いました。自分の友達がいじめを受けているのに見てみぬふりをするなんて、どのような神経をしているのか私には分かりません。」という言葉を読みましたが、何かあったときに限らず、自分から動けないのは誰でも同じなのではないでしょうか。誰かがいじめられていて、「助けたい。止めたい」と思いはしても、なかなか行動に、言葉に、声にあらわすのは難しい。「今度は自分がいじめられたらどうしよう。一人になるのは嫌だなあ」と防衛心理が働き、周囲との調和を保とうとします。実際、私もいじめられている人を助けられません。怖いから、が理由になります。孤独には、なりたくないからでしょうね。「警察はついに、昨年、滋賀県の大津市の13歳の男子の自殺で、いじめの証拠について調査している。」という記事の訳を読んで、「本当に今更・・・」と呆れました。警察は何をやっているのか、と怒りの声が上がってもおかしくはないと思います。自殺した男の子の家族は、二度と子供が自殺するニュースを聞いたり見たりはしたくないでしょう。政府も、将来の我が国を支えてくれる命を失ったというのに、動き出しが遅い。政治界の人間にとってしたら、たかが年端もいかない小童の命など、塵芥よりも軽いのかも知れません。外交関係や自分の地位と権力維持に躍起になっているでしょうしね。「男の子の同級生が彼に自殺を「練習する」ことを強制した」という記事の訳を読んで、「自殺の練習!?」と驚きました。自殺なんてやれば一発・・・一回で十分。一回で一つの命が消えます。なのにその練習を強制するなんて。「何だこいつら。馬鹿か。馬鹿なのか」と思わず呟いていました。今の日本はどうなっているのでしょう。日本だけではなく、他の国でもやはりこうした問題を抱えているのでしょうか。人間の心が自分を守ることに精一杯過ぎて、周囲に目を向けることを忘れているのだと思います。また、我関せず思考の人が多すぎる気がします。もう一度人間関係を見つめ直し、傍にいる人と真正面から話し会ってほしいです。
いじめを肯定するような意見は一つもないので優しい人が多いと思いました。いじめられていた人に対してみんな同情的だと思いました。「いじめはここ数年ではじまったものではなく、昔からある。正直、自分はこの世界からいじめがなくなることは一生ないのではないかと思う。人間一人一人考え方はちがうもので、そこから考え方の違いが生じるのはあたりまえ。」という意見の人がいて、私もそうだなと思いました。ただ、考え方の違うからといって自分の意見を他人に押し付けるようなことはしてはいけないと思います。考え方が違うからいじめるのは考えの伝え方が間違ってると思います。何があってもいじめを肯定してはいけない。いじめがなくなるということは絶対無いのかもしれないけど無くそうとすることが重要だと思いました。いじめていた側がいじめていたという自覚がないというところが今回のいじめの問題点だと思います。「これから死ぬ」と言った人に対して「おまえは死ぬべき」と答えたというのは加害者が自分がいじめているという自覚がない証拠だと思います。自殺した人にとっては自殺するほどの大きな悩みだったのに加害者にとっては遊び程度の認識だったことがびっくりしました。加害者は何を考え、何を思いながら、被害者を自殺に追い込んだのか。被害者を自殺させておきながらその人のことを友達だと思っていたのか。どのような考えの持ち主なのかは分かりませんが、そういう人にはなりたくないと思いました。「いじめがなくなればいい」とか「いじめを減らしたい」という意見がほとんどでした。本当にそうだと思います。いじめをなくすためには誰かが加害者に注意する、大人に頼るべきだという意見がありました。でも、現状はきっといじめられている人はいじめられていることを誰かに言うことができないと思います。だから誰かに言えるような環境を作るとか、そもそもいじめが起こるような環境を作らないとかそういう社会を築く必要があると思いました。今、政府や地方ではいじめをなくす動きが強まっています。そういった組織の努力だけでなく、私たち個人での意識を高めることもいじめをなくす第一歩になるとみんなの夏休みの課題を読んで改めて思いました。
予想はしていたが偽善のオンパレードだった。予測可能回避不可能である(キリッ)。やはり一応教師の目に通ることを考えるとそうせざるを得ないのだろうか。仕方ない…仕方ないことなのだ!が、面白味がほしかったところである。私は死んだ人に敬意を払うといったことがない。クソ爺がお逝きになったとたん悲しみの演技をしだす人たちとか大嫌いだ。今回はいじめの被害を受けた生徒がクソというわけではないのだが、死ぬことになってやっとニュースに取り沙汰され、残念だなあと思いました。だって普通だったらこんな三面記事にされることもなく終わる話でしょう?3,4ヶ月程前だったか、札幌の中学生も一人落ちた人いましたよね。でも今それを覚えてる人なんてごく一部の人たちでしょう。それがなぜ今回、こうまで世間を騒がせたか。それについては分かりません(ここツっこむところです)。こうなったら真面目に考えたって無駄なんだ。これはもう楽しむしかない。ただ騒ぎたい人に便乗することのみが私の答えだ。みんなが本心からして書いた感想なのかはおいておき、私は嘘はあまりつきたくないので多少なりともリアリティのある感想を書いたつもりだ。
『日本南部の13歳の無名の少年は、15人の学生の間で行なわれた調査により、系統的ないじめを受けていたことがわかりました。)この記事を読んで、私は「なぜ生徒を対象としたアンケートで初めていじめが発覚したのかな?」と、不思議に思いました。いじめならばアンケートなどをとらなくても、周りの生徒や担任の先生が気づくはずです』こ文を読んで思ったことは、今日本でいじめ問題が深刻になってきていて、TVで○○でいじめが発覚、または○○で自殺者が出たなどのニュースを聞きますが、生徒だって脅されたりしていたら素直に心境を打ち明けれないのかもしれません。そのようなアンケートをとらないとわからないようにひそかにいじめは行われているのでしょうか。自殺するほどにまで人間を追い込むようないじめならば、かなりの人が周りにいることで気づくはずです。周りが気づいたら、誰かしら注意や、学校の先生に相談してみるなどできないのだろうか。その人の感想には、「私がいざいじめている人に注意できるかと言われたらできない」とありました。私も考え直しましたが、状況によっては私もできないかもしれません。次にいじめられるのが私になるのが嫌という気持ちももちろんありますが、ですが絶対、心の奥でどこかに罪悪感などがうずめくと思います。『もし親がいじめに気づいて、子供の相談を聞いていて転校や引越しなどをしていたら、亡くなった少年は死ななくて済んだのかもしれません。転校、引越し、手段は沢山あるのだから。親も親で、子供の悩みに気づかなかったことにものすごく後悔しているとおもいます。』この文を読んで思ったことは、家庭の関係について。この時期私自信もわかりますが、家の人に対して反抗的な態度を取ったりする方いますよね。もしそのような関係をしていて関係が悪いままにしていると、親も親で子供のいじめに気付かないと思います。家庭内に限らず、全てにおいてそのようなことを相談できるような人を作っておくというような人間関係も大切な問題になっていると思います。私も最近、とても悩むことがありました。すっごい嫌でストレスが溜まったりして大変でしたが、話を聞いてくれるような人がいるだけでずいぶん楽になった気がします。改めて人間関係を築くことの大切さを感じた。『まず日本の事であってもここまで注目されてるのはすごいと思う。それは誇らしいことでも何でもない。その内容がいじめ。いじめはどの国にも存在するし、自分の周りにも起こりうることである。しかしなぜこんな大きな記事になっているのだろうか。なぜなら、いじめに関心の無くなった教師達や政府の責任だと私は個人的にそう思った』この文を読んで感じたこと。日本は割と先進工業国ってゆうのもあるし、注目されることだって多き国です。だけど、いじめなんかでここまで注目されるのは確かにばかばかしい。この文章を書いた方は、こんな大事になった理由としていじめへの関心の少ない教師、政府の責任。と書いてあります。私は今の「教師」といっても教師の数だって計り知れないほどいます。全員がそのようにいじめに関心のない人達とは思いません。新川高校の先生方は、時たまいじめに関するアンケートを取ったりしていて、私からしてみたら「そんなにいじめのこと気にしても、このクラスにいじめなんかないのにな」と感じていたこともありましたが、今となってはそのように気にかけてくれる先生達はいい先生達なんだなと思いました。確かにいじめの起こったニュースを聞いているといじめへの関心が少なさそうな先生(校長も含め)たちが多そうな学校に起きているような気がします。新川だと、もしいじめがあって誰かしらの先生に言ったら誰でも相談に乗ってくれたり、対策を考えてくれるのだろうと思います。だけど、TVで見るような学校は、そもそも生徒が命を経ってから「私たちはいじめなど知らない、起こっていない」そして後々「いじめがあった可能性がある」などとしていて。あまりにもふざけてますよね。そんなんなら。「いじめられている」と感じる「いじめ」の「価値観」は人それぞれですよね。性格がサバサバしているような人だと、いじめって思わないかもしれないし、天然な人とかだと気付かないこともあるかもしれないけど、個人差とかに関係なく「いじめられている」という発想を相手に持たせた場合それはもう「いじめ」なんだと思います。いじめのボーダーラインはないと思います。他人から見ると、「え、そんなことで?」と思うこともあるかもしれませんが、その本人にとっては傷つき、悩んだことであるのです。『この男子は昨年10月11日分譲マンションから飛びおりた。レポートによると容疑者は男子に自殺の「練習」を強制していたという。)人間が、それも中学生が考えることとは思えない。むしろ、そんな世の中が存在すると考えたくない。このいじめっ子は今回亡くなった男子に練習を強制してどうするつもりだったのだろうか。この男子が命を絶つことを望んでいたのか。さすがにそこまでは考えにくいものがある。だとするとやはり、ちょっとしたおふざけがエスカレートした結果だろう。』を読んで思ったのは、自殺の練習の意味のなさについて。そもそも自殺は、いじめのつらさなどから逃げる、選んではいけないある意味での最終的手段だと思います。自殺を選択肢に考慮に入れるのは、きっと本人も軽い気持ちで決めたことではないはず。それを練習させるとはどういうことですか。中学生が考えることは頭おかしい部分もあると思う。そのような常識外れた考えを持つ生徒を抑制するのもやはり生徒と親の使命なんじゃないかと思った。今まで生きてきて、ふざけていたことでも、あれはやりすぎなんじゃないかななどと思うこともあったことはありましたが、人として「自殺の練習」はありえないと思います。そんなくだらないことして、誰が得をするんでしょうか。失うことばかりで得るものなんて何一つないはずです。いろんな人の意見を読んで、みんなもやっぱりいじめに関する意見をたくさん持っているなと思いました。みんながこういう意見を持っているときっとその学校ではいじめは起きないと思いますし、日本全体としていじめを見つめなおす重要性が浮かび上がっているんじゃないかなと思いました。
夏休みの課題1のいじめ問題についての感想のまとめと傾向、自分は、この大津市でおこったいじめとそれが原因の自殺に対する大津市教育委員会についてまとめた。それについてはやはり批判的な意見が多くみられた。批判的な意見以外にこのような意見があった。この記事を読んで、私は、教育に携わる人の責任の重さを感じました。教育とは、一種の洗脳ともいえる、受ける人の人格を形成するといっても過言ではないほどの影響力を持っています。人生のおよそ1/4ほどの期間ですが、みなその時期に教わったことを生かして残りの3/4の人生を過ごしていくのです。その時期に十分な教育を受けることができなければ大人になったとき困ってしまうし、今回の事件のように教育を受けている段階で自ら命を絶つまで追い込まれてしまうなどもってのほかでしょう。将来のためにしていることのために将来を失うなど、本末転倒です。未来を担う子どもたちが、安心して教育を受けるためには、よき指導者が必要となります。ここでいうよき指導者というのは、知識を伝えるのがうまいだけではなく、まだ人間的にも未熟な子どもたちに人としての道理などを上手に教えることのできるひとだと思います。教育に関わっている人々は、果たして自分がふさわしくあるのか、今回の事件をきっかけに一度日頃の自分を見直すべきではないでしょうか。といゆう意見である。このような改善点をみずからもった意見はいいと思う。この大津のいじめ以外ではBullying a crime that goes noticed,ignored Otsu boy's suicide came after repeated calls for help,father told をまとめている人が多くみられた。この文章を読んで思ったことは、きっとどんな親でも自分の娘、息子がいじめにより命を落とした場合、言葉ではいい表すことが難しいほどに傷つくのではないかと思いました。この文章では自殺をしてしまった男の子は13歳ですが、あまりにも早い人生のピリオドだと思います。私には弟がいて、彼は今年で13歳です。今亡くなったらと思うととてつもなく悲しいです。中学1年生には、これからまだまだ輝く未来が待っているのに。お父さんの気持ちも分かります。いじめの調査はこの事件だけでなく今、大津の問題も挙げられていますが、あまりにも調査を始めるのが遅いのではないかと思う。だから、政府に対しそのような考えを思いついたのでしょう。この問題については、日本全国のいじめ問題をもう一度、政府だけでなく全国民見直すべきです。最近ネットニュースなどをよく見るのですが、大津などのいじめ問題などで「~~だった」という文末をよく目にします。だった、という言葉は、なぜそのことが当時に知ることができなかったのか。それは調査が遅いからなのではないか。時間が経過するにつれ隠蔽問題も浮かんでくる。だからこそ、年齢問わず、いじめについてみんなで考えるべきだと思います。この感想は一人の生徒のものだが、これに似た傾向の意見が多かった。やはりいじめで自殺してしまった生徒や残された家族に同情しているのだろう。ほかには、いじめっ子に対する意見、たとえば罪悪感はあるのか、どういう意図でいじめたか、理解に苦しむ、などという意見。ふつうに考えて当然であり、いじめた人に同情の声など寄せられるはずもありません。よくテレビなどで、いじめたほうは悪いがいじめられたほうも悪いなどという馬鹿げた意見をいう評論家などがいますが、その意見をいじめられて自ら命を断とうか迷うほど精神的、肉体的に追い詰められている生徒にいうことができるでしょうか、自分の子供を失って、いじめの加害者におびただしいほどの怒りを思っている遺族にいえるでしょうか、そんな意見をいう人はいじめの現状を知らないのだと思います。このような記事を見た人はそのようなことは一切口にできないはずです。ほかにも、Japan: Boy driven to suicide wasn't helped by teachersをまとめている人も何人か見られた。この記事の感想は、教師にこの学校の教師に対する批判が多かった。
さまざまな人たちのまとめを読んで感じたのは、やはり少年の、人の命の尊さとそれを冒とくしている人たちへの怒りです。小、中、高校のいじめの報告数は年々減少していますが、果たしてどこまで信頼に値する資料なのかも疑わしいと感じてしまうし、「これだけの数が出ましたよ」という世間へのアリバイ工作にしか見えません。報告数を出して、そこから改善策を出していくことが大切なのに、「みなさん、いじめはよくありません。やめましょう」という感じの投げっぱなしだと思います。しかし、いま大津市の事件をきっかけにいじめ問題について世間の目が向いています。いじめ問題は決して他人ごとではないし、ひょっとすればこの新川高校でも実は起こっていることかもしれません。大人の人たちにもやってもらうことは多くありますが、自分たち学生が、いじめについての意識を高く持たないといけないし、絶対にいじめを許してはいけないという気持ちがないといくらでも起きてしまうことだと思います。自分たちがその部分に対しての意識を高く持ち、大人たちにも本腰入れて手伝ってくれるようにして、いじめを、自殺を未然に防ぐ社会になって欲しいと思いました。
他の人の文章を読んで、やはりいじめは本当にあってはならないと実感しました。 自分も課題の和訳のときに取り上げたのですが、大津の教育委員会は、「いじめが学校内であったことは認めるが、それが原因で自殺したとは結びつかない」という判断をしていました。確かに、いじめが原因となって自殺したかどうかは、自殺した本人にしかわからないとは思いますが、全くの第三者である私が考えても、自殺の原因にいじめが関わっていたことは一目瞭然です。 教育委員会だってそんなことは分かっているはずなのに、どうしてこのような判断に至ってしまったのかと思いました。子供の教育を司るためにできた機関なのに、その子供たちの尊い命を見捨ててしまっていいのだろうかと思いました。 子供の教育は、勉強がすべてではなく日常における集団行動を身につけることも大きな目的であるはずなのに、その集団の輪を乱すような人が罰せられないのはおかしいと思います。 「自分の子供がいじめられているのにそれに気付かない親も親であると思う。 」という意見も見られました。親に責任があるとは思いませんが、学校で暴力をふるわれたり、根性焼きをさせられたとなると、当然子供の体にはなんらかの跡がつくはずだし、万引きなどの明らかな犯罪を強要されたとなると普段とは様子も違ってきてしまうと思うので、それに気付いていたのならば、自分の子供に一声かけてあげることによって自殺をしてしまう前に食い止められた可能性があるのではないかと思いました。 「学校でいじめが起きているかどうかはアンケートで調査しなければわからないのだろうか。」という意見もありました。この考えを読んで、私も全くその通りだと思いました。もし学校でいじめが起きているならば、周りの生徒はもちろん、ともすれば担任だって気付くのではないかと私は思います。それなのにアンケートを取らなければいじめの実態を把握することができないという現実は、いじめが起きている周りにいる生徒が見て見ぬふりをしているという現状を表面化していると思います。私は、見て見ぬふりをしている人が一番良くないと思います。いじめの中に首をつっこんだら今度は自分がいじめの標的へと狙われてしまうという思いがあるのかとは思いますが、それでも、その時にいじめの標的となっている生徒のことを考えると、見て見ぬふりをするのは卑劣な行動であるとおもいます。自分のちからで解決できなかったら、近くにいる先生に相談するなどして、なんとしてでもいじめは止めるべきだと思います。また、最近、いじめによる自殺が連鎖してしまっていると思います。ニュースでとある中学生の人が自殺したのを最初に、ここ数日の短い間でさまざまな人が自ら命を絶ったというかなしいニュースが耳に入ってきているきがします。 「あの人もこの人も自殺しているし」という考えにつながっているのではないかと感じています。中学生の自殺というニュースを報道するのはもちろん悪いことではありませんが、いじめられている人にとっては悪影響を及ぼしているのではないかと考えると、なんだかやるせない気持ちがします。そんな負の連鎖を食い止めるためにも、やはりいじめは根本的になくしていく活動をしていくべきだと思います。いじめている側の人間のゲーム感覚をなくさせて、いじめは立派な犯罪であるということをもっと知らしめ、個人個人のいじめに対する意識を高めていくことが重要なのではないかと思います。今一度、いじめている側の人間は、自分が他の人に対してしている"ゲーム"を自分が受けたらどんな感情になるかを考えてほしいです。いじめられている人にも原因があるという考えは違うと私は思います。
自分はこの課題は急いでやったのでうまくまとめることができなかったが、周りの人は自分の考えをうまくまとめていたのですごいなと思った。次回からは急ぐ必要がないように余裕を持って取り組みたい。
みんな訳とかしっかりできていてすごいと思った。いじめについての感想は一人ひとり少し違っていてとても面白かった。いろいろな見方があることを発見できた。みんな似たような文章を選んでいた。でも感想はその人の思っている事が見れて飽きなかった。これから文章を書いていく見本になった。また、感想を沢山書いている人はよくネタが尽きないなぁと思いました。