2012/9/11課題 (9/11締切)


TED 内向的パワー> イジメ問題への解決策を探る      生徒たちの文章による<紙上プレゼン>です!



今回のTEDの動画を見て、内向的な人は学校や職場などの場で偏見や問題児などとみなされることが少なくない、ということがわかりました。内向的な人は他者とあまりかかわりを持たず、目立たない環境にいることが多いです。全人口の3分の1を占める内向的な人は外向的な人よりもリーダーに向いているとプレゼンターが話していました。外向的な人は我を通し仕切りがちというからです。 Now, most of us work in open plan offices, without walls, where we are subject to the constant noise and gaze of our coworkers. And when it comes to leadership, 外向的な人とは違い内向的な人は慎重であまり積極的ではないという傾向があります。しかし内向的な人はあまり取り入れられません。そこに現在のいじめ問題に関する問題があると思います。内向的で外向的な人から見ると変りものではみ出し者は自分たちとは違う、いわば異質な存在として認識し、それをいじめの格好の標的とします。だけど、内向的な人には何の罪悪もなく、むしろ平穏に過ごしているです。しかし外向的な人は自分とは考えを違う人を変人扱いして、いじめを加速させることになるのです。とくに内向的な人はいじめが起こると内向的である性質がゆえにそのことを親や教師にいうことが難しくなり、心に鬱ぎこみ、大津などのように悲惨な結果を招きます。彼女はまた、「 Stop the madness for constant group work.」とも言っています。共同作業が悪いとは言いませんがあまり共同作業をしすぎると内向的な人はその輪に入ることが難しくなると思います。その結果仲間の輪から外れて本人の意図しない孤独が出来上がるのです。たとえば、班編成の時に一人だけ残るとかそのようなことがあります。それが進むとたとえいじめと意識していないかもしれないが、無視などにつながっていき、それがいじめを誘発することさえあります。加担していない周囲の人たちさえ暗に黙認するでしょう。そのような環境がいじめを発生させる容認にもなるのです。



わたしは自分では自らを内向的だと思っている。極度の人見知りで初対面の人とは特にうまくかかわれない。しかし社会が必要としている人材に求めることはコミュニケーション能力である、と聞いたことがあり、それからはどうにかコミュニケーション能力を高めようと思い立ち学校のような集団の場では明るくふるまっているつもりだ。だがしかし今日、このプレゼンを視聴してそんなこと必要ないのかもしれないと思った。内向的ときくと自然とマイナスな雰囲気をイメージするのはわたしだけではないだろう。未就学児のころから集団の中での行動を教えられたが積極的な人間はいつも集団の中心で笑っていた。逆に一人が好きな人間は集団での行動を嫌い、だんだんと輪からはずれていいった。こう書くと自ら集団から離れたように思えるが、そうではない。集団の中心にいるような人間はみんなで行動することに楽しさを感じるがそうでない人間にとっては集団からの誘いも魅力的には思えず断る。そうしたら集団はその人に良い印象を覚えず避けはじめたりするのではないだろうか。イジメがはじまるきっかけは本当に小さな小さなことだと思う。それがだんだんエスカレートして尊い命を失う結果になる。そのきっかけはいたるところにさまざまな場面にあるものだが、エスカレートを避けるには自分の意見をはっきり言えることが重大な役割を果たすと思う。なんとなく悪ふざけにのってしまうことから始まるイジメ。やりたくないことはそう言えばいい。その人にはそこではない居場所だって絶対あるのだから自分を犠牲にしてまで周りに合わせる必要はないのだ。その自分に合った、居心地のいい場所にいたほうが人はありのままの自分をさらけ出せるだろう。たとえば自分の本音に基づいて行動したり自分が本当にしたいことをしたり。今回のプレゼンの中でスーザン・ケインもthe key then to maximizing our talents is for us all to put ourselves in the zone of stimulation that is right for us.(みんなが 持てる才能を 最大限に発揮できるようにする鍵は その人に合った刺激の中に 身を置くということなのです)という言葉を口にしている。言いたいことは似ていると思う。「自分に合った刺激」と言われてもはっきりとはわからないが、なんとなく合わない刺激はわかる気がする。そして、どんな時に自分は才能を発揮できていたのか言われてみればこの考えにうなずける。自分を知って、自分に合う場所を見つけ、そこでイキイキと輝けるならそこがどんな場所でもその人は生気に溢れてる。他にもスーザンのこんな言葉が印象的だった。introverted leaders often deliver better outcomes than extroverts do, because when they are managing proactive employees, they're much more likely to let those employees run with their ideas, whereas an extrovert can, quite unwittingly, get so excited about things that they're putting their own stamp on things, and other people's ideas might not as easily then bubble up to the surface(内向的なリーダーは外向的なリーダーよりも 良い結果を生むことが多いというのです 内向的なリーダーは 積極的なメンバーが アイデアを出して活躍できるようにさせる一方 外向的なリーダーは 気づかぬうちに 何でも自分で仕切ることに 夢中になって 他の人のアイデアがなかなか 活かされないようにしてしまうのです)これはスーザンの言葉と言うべきかウォートン経営大学院のアダム・グラントの研究結果だそうだが、非常に納得できる理由だと感じた。内向的な人が社会を良い方向に導ける力が十二分にあることがわかる。メディアで注目されちやほやと話題にされるのは主に外向的な人だろう。芸能人として活躍する人々のこと。社会的影響力は大きいがたいていは一時的なものだ。それに比べてスーザンが言うように エレノア・ルーズベルト ローザ・パークス ガンジー などの世界の偉人伝に頻出する人物は内向的であったがその時の社会を引っ張って行くリーダーとして大いに活躍した。このように内向的な人の良い面をみるべきだ。イジメる側につくことの多い外向的な人は内向的な人の良い面を知ろうとすることが必要。イジメられる側につくことの多い内向的な人は自分の意見をはっきり伝えることが必要。結局、イジメの解決策の根底は基本的なことだ。相手の立場に立つことや、先を見据えた言動をすること。こんな小学生が道徳の授業で学ぶような人間性の基本がぶれてしまって、結果的に人の命を間接的に奪うことになる。周りの大人が子どもを、子どもの未来を大切にしながら地域として国として育てていくことが重要だとおもっている。子どもにとっても未来を考えることは自分を育てるよい方法だろう。未来に夢があれば余計なことに労力をつぎ込むことも少なくなる。夢を持つことは本当に大きな力になると信じている。夢を叶え、子供たちの夢をつくれる人になれたらなんて素晴らしいだろうか。子どもの夢って尊重するべきだと思わないだろうか。それはいいとしてイジメを解決するには社会としてどんな人へも過ごしやすい居場所を作ることが第一優先的にすべきだ。その求められる社会を作っていくのはわたしたち。自分以外を受け入れる精神を持つことからはじめよう。




加藤先生のプレゼンテーションによると、1000年に1度といわれるほどの大規模な東日本大震災での死者は2万人を超えたそうです。(どれだけの人が死んだかの質問に答えられている人がいましたが、私は正直わかりませんでした。ものを知らないのは恥ずかしいことで、しかもこれだけ大きなことを知らなかったのは駄目だと思いました。これからは新聞等を読み世界情勢などを把握していきたいです。)一方で日本での自殺する人は年間で3万人もいるそうです。ということは自殺問題の方が実は大変大きな問題だということです。さらに、小学生を含む生徒の自殺者数は2008年は統計をとり始めた1978年以降最多を記録しているそうです。こうしたデータからも重大なことなのはわかっていましたが、どうしても遠いことのように思えていました。時事英語の時間でも大津市の自殺問題など何度もこのことに関してとりあげ自分の意見を書いていたのにです。しかし最近、札幌市内の中学校でも自殺した生徒がでたというニュースを見たとき、本当にあることなんだなと感じました。身近に起こらなければ実感することができないというのは私だけではないのではないでしょうか。現在、少子高齢社会である日本においてこれからの日本を担っていく子供の命はとても重要です。子供の自殺は日本にとって巨大な損失となるわけです。それを防ぐためにも解決策を考えなければなりません。大人が考えても答えがでないような大きな問題であろうとも、だからこそ同じ世代である私たちが考えるのです。現在チャイルドラインなどの子供の声を聞くというものがあり、かかってくる電話の件数は年々増加しているそうだ。チャイルドラインは電話相談ではなく、電話の受け手は、子どもの声を聴き、こころを受け止めることに徹するそうです。子どもと一緒に喜んだり考えたり、子どもを誉めたりはしますが、子どもに対して、叱ったり、お説教したり、指示したりはしないのです。子どもは大人に話を聴いてもらうことで、自分を受け止められた、認めてもらえた、と感じることができ、それが安心感や自信につながるそうです。また、自分の言葉を聴くことで、自分の気持ちや考え、状態を理解する。相手に何かを伝えるために、自分の考えをまとめたりもします。つまり、子どもの話をじっくり聴くという行為は、その子どもの心の成長を促すのです。確かに私もつらいことがあって友達に相談することで、明確な答えが返ってくるわけではなくとも楽になった経験があります。「09年版自殺策白書」には、子どもの自殺を減らすには子どもが悩みを打ち明けたいときに打ち明けられるシステムづくりが重要だ、と書かれています。チャイルドラインのような活動は、まさにそういうシステムです。これらのことからチャイルドラインはとても必要なものなのです。これをもっと活用すべきだと思う一方で、周りにそういったことを打ち明けられる人がいないというのは悲しいことであり、問題だと思います。チャイルドラインがなくなるような社会づくりが必要なのだと思いました。ある映画で、「大量の豆をこぼして一気に拾うことはできないけれど、ひとつずつ拾っていけば最後にはすべて豆が拾える」というのがありました。この豆の話のように私も目の前で苦しんでいる人、悩んでいる人がいれば積極的に話を聴いていきたいです。よく言うことではありますが、大きなことも一人ひとりが取り組めば改善していけると思います。スーザン・ケインさんが「内向的な人が秘めている力」で主張しているのは、よく省かれたりいじめられたりしてしまう人は内向的な人ですが、世界を変え人(ガンジーなどの偉人)は外向的な人じゃなくて内向的な人ということです。内向的な人は独自な大きな世界があります。スーザン・ケインさんは自身を内向的だと言っていて、ずっとグループ作業をしているのはおかしいなどと批判していますが、外向的な人が一概に悪いと言っているのではありません。And what I'm saying that culturally we need a much better balance.(私が言いたいのは社会として両者をもっとうまくバランスをとる必要があるというこです。)We need more of a yin and yang between these two types.(陰と陽のように両方必要なのです。)とても重要なことだと思います。学祭などの行事を例に考えてみても、みんながみんな自分の意見を通したいという人であれば意見はまとまりませんし、全員が周りの意見にあわせるという人でも話し合いは進みません。どちらも両方必要なのです。




いじめ問題は何年も前からある問題にもかかわらず、解決の兆しが見られないのが現状だと思う。年に3万人も命を落としてしまう人がいて、その遺族の悲しみや苦しみを合わせると年に10万人以上の被害者がいるということになる。こう考えると、いじめ問題を今以上に国の問題の一つとして取り扱っていかなければならないと思った。いじめられる人の大部分は内向的な消極的な人でニュースでみる被害者も、最後は手紙などで事実を打ち明けていて、苦しい問題を抱えていても人に直接言えないということがあると思う。それゆえに、いじめという大きな問題を一人で抱えてしまって死という選択肢を選んでしまうのではないだろうか。最近になってまたいじめに関してのニュースが取り上げられるようになった。いじめと死について考えるような人はいじめをする側になることはゼロに等しい。いじめをする人は自分の行為が悪いと思っていないからやってしまうわけであって、その点に自分が気が付かなければいじめは続いてしまうに違いない。内向的だからいじめられるわけではないし、外向的だから絶対にいじめられないわけでもない。私たち人間には個性というものがあって積極的、消極的など正反対の性格がありもちろん内向的、外向的にも区分することができる。いじめを行う人はどのような気持ちでいるのだろうか。自分がいじめていた人が死んでしまったらどう感じているのだろうか。私にはそれが不思議に思われてしょうがない。And I always senced deep down that this was wrong and that introverts were pretty excellent just as they were.(そして、心の中でそんなの間違っている、内向的なことに悪いことなんてないのにといつも感じていました。)このスーザン・ケインさんの言葉が印象に残りました。わたしは幼稚園、小学校の時はどちらかというと内向的でもっと友達と関わりたいや、クラスの明るい女子がうらやましかったのを覚えている。しかしそんな性格も中学を卒業する頃や高校入学を機に変わっていった。いじめられていたわけではないが、そのように内向的がいつまでも続くわけでもないし、むしろ年齢とともに変わっていくことが多いような気がする。しかしそれはいいことのように思っていたがこのプレゼンを聞いてすごくもったいないことなのかもしれないと思い始めた。実際、世界の偉人の中にも外向的な性格の人が多いわけではなくて、内向的な人にこそ内に秘めた特別なもののような力を持っているのかもしれない。いじめをうけている人は自殺者の何倍いるのだろうか、と考えることがある。いじめられたからといってみんながみんな死を選択するわけではないし、いじめと向き合っている人もいると思う。そのような人は全体的にみても少ないと思うし、やはり大事なのはそのことに気づいてあげる第三者の存在だと思う。「いじめられている人の心の叫びにすばやく気づいていれば・・・」という後悔だけは絶対にすることのないようにしていきたい。もっと個人が、特に学生である私たちが、いじめ問題についてもっと敏感になるべきだと思った。




イジメ問題にへの解決策を探るということですが、それをみつけるにあたってまずいじめが起きる原因について考えていきたいと思います。私は、いじめはいじめられる側といじめる側の考え方の違いによって起きているのではないか、と考えます。世の中には、本人は普通だと思っていることも、他人から見るとおかしいと思われることがよくあります。友達や他人は生まれ育った環境が全く違うので当たり前のことといえるかもしれません。そして人間は幼い時、自分と違うものを見つけると排除しようと思うことが少なくありません。いじめる側の特徴として、自分の考えがすべて正しいと思い込み、それをみんなに押し付けていることが挙げられます。スーザン・ケインさんは、TEDのプレゼンの中で、 “All the times that I got the message that somehow my quiet and introverted style of being was not necessarily the right way to go, that I should be trying to pass as more of an extrovert.”(静かで内向的なのは正しくない、もっと外向的な人間として認められるよう努力すべきだというメッセージをいつも受けとっていた。)と述べています。ケインさん自身、いじめではないですがこのようなことを言われた体験がとても多かったといいます。内向的なのがいけなくて外向的ではなくてはならないなんて、誰が決めたのでしょう?これは自分の考えを他人に押し付けている例のひとつかと思われます。このような小さなことからいじめが始まるのではないかと思います。このことから、イジメ問題の解決のためには、他人の考えを受け入れることが大切なのではないかと思います。しかしながら、自分と違う考えや自分とは違う行動をする人に出会ったときにそれを受け入れるというのは、まだ精神的に未熟な小学生や中学生には難しいことでもあります。なので、いじめ対策として、周りの大人の指導も必要になってくるのではないでしょうか。




私は、「内向的な人は地味で、積極性がなくて、いつも一人」といった偏見をなくすべきだと思った。逆に外向的な人はいつもグループを作り、誰かに意見を合わせているためオリジナリティに欠けている。だれかといつも一緒にいることは決して悪いことではない。むしろ将来仕事に就いた時に、他人と力を合わせて仕事を成功させることが要求される。そういった面では外向的な人のほうがコミュニケーション能力が高いため、いい連携が生まれるかもしれない。最近の学校の授業では、何でも友達と協力して何かをやり遂げようとしている。そんな毎日を過ごしていては、いつの間にか自分で考えることが少なくなって誰かに任せてしまったり、決まっている人だけが行動に起こすようになってしまう。そのため、一人で作業しなければいけない仕事のときに、自分の真の実力を出しきれない人たちが出てきてしまう。そんな時に真の実力を発揮するのが内向的な人だ。内向的な人はグループを作って誰かに合わせる生活を送るよりも、一人でじっくりと考えて答えを出すほうが最もよいアイディアが生まれ、それが自分らしい、ということをわかっているからだろう。内向的な人すべてでが、誰かに関わりたくないから一人でいるわけではないのだ。自分らしさを尊重している証拠であると私は思う。もちろん、グループでいる人すべてが自分らしさを出しきれていないと言いたいのではない。きっとグループの中の人には、1人でいたい時や周りの人に合わせる事に疲れてしまっている人もいると思う。しかし、グループから外れたり、自分の本当の意見をなかなか言い出せなかったりすると、省かれてしまうのでは無いかと思ってしまう人もいるはずだ。だから外向的な人は、そんな内向的な人のことをよく理解してあげるべきだ。そして、お互いの良い所を見つけて、上手く活かしていくべきだと思った。スーザン・ケインのプレゼンであったように、内向的なウォズニアックの技術をジョブズうまく活かして、大成功を遂げた。Now of course,this does not mean that we should all stop collaborating --and case in point, is Steve Wozniak famously coming together with Steve Jobsto start Apple Computer --but it does mean that solitude mattersand that for some peopleit is the air that they breathe.このように、外向的な人がいかにして内向的な人の能力を引き出してあげられるかが重要である。また外向的な人も、一度1人でじっくりと考えてみる機会を設けたほうがいい。So Darwin,he took long walks alone in the woodsand emphatically turned down dinner party invitations.このようにして、ほかの人の考えに頼ることなく自分の真の考えを見いだすことができるだろう。中には、1人でいるということに寂しさを感じるだろうと思う人もいるかもしれない。しかし、1人の時間というのは贅沢でとても貴重な時間である。人々は毎日雑音に囲まれたり、視線を感じながら生活してストレスが溜まっている。だからこそ1人の時間を大事にし、自分自身を見つめなおすことも外向的な人には必要だ。一方内向的な人は、少し勇気を持って自分を出してみることが必要だ。きっと、突然外向的な人が歩み寄ってきたらびっくりしてあまり心を開いてくれないだろう。しかし私たちの生活には内向的な人たちの考えや技術、存在が必要なので、それを知ってほしい。これらを改善することで絶対にいじめが無くなるだなんて、素人の私には言い切れないけれど、少なくとも心を軽くすることができると思う。




スーザン・ケイン「内向的な人が秘めている力」を見て‐イジメ問題に対する解決策を探る‐今日は、2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが発生してちょうど11年です。結論から言うと、私は、「いじめ」と、このような「テロ」若しくは「戦争」が関係していると思っています。いじめを認めることは戦争に賛成することと同じです。この考えの根底にあるのは「武力で解決する」か「話し合いで解決する」か、ということです。人と関わっていれば、必ずなんらかの問題が起きます。意見のくい違いだったり、意志の疎通ができていなかったり、被害を被ったり…例を挙げたらきりがないですが、本当にさまざまな対人トラブルが存在します。そのようなとき、先ほどの二択が現れます。武力で解決する、つまりいじめるのはとても簡単です。目的がはっきりしているからです。「相手を傷つけて、ダメージを与える」という。だから誰でもできます。幼稚園児でも、小学生でも、中学生でも高校生でも、大人でも。今回のテーマで先生(じゃなかったらごめんなさい)は「苛められる側に対する「偏見」が根底にあるから」と仰っていますが、「なぜいじめをするか」と言ったら「簡単だから」なんですね。手っ取り早く敵を打ちのめして、自分の欲を解消することができる。もしかしたら、いじめることで欲を解消している人もいるかもしれません。それに対して、話し合いで解決する方は、誰にでもできることではありません。それなりに知識と教養を持った人でないと「話し合いで物事を解決する」なんてできません。ただ、それをできるようになるための下準備というか、蓄えや備えをすることはできます。それを訓練するときが、教育を受けている期間、すなわち学生時代です。学校は人間関係を学ぶ場所でもあります。将来社会に出て人間関係で困らないように、つまりトラブルに巻き込まれてもスムーズに解決できるようになるために、学校でいろいろなことを学びます。その中のひとつに、「話し合いで物事を解決できるようになる」ということがあります。それは例えば学級内で、かもしれないし、委員会で、かもしれないし、部活内で、かもしれません。確かに話し合いは時間も労力も費やします。確かに非常に面倒くさいです。ですが、「話し合いをする」ことに意味があるのです。それが最も正しい解決方法だと思います。いじめを肯定するつもりはまったくありませんが、学校でいじめが起こった場合に、教師あるいは周りの人たちはそのような正しい方向に導いているでしょうか。さて、課題にあるTEDトークについてですが、まず私は内向的な人を否定しません。私にも内向的な部分はあります。Be like Buddha, have your own revelations.(ブッダのように自分の啓示を見つけましょう。)I am saying that we could all stand to unplug and get inside our own heads a little more often.(気を散らすものから離れ自分の思索に耽る時間をもう少し増やしましょうということです。)とスーザンさんは言っています。私も自分と見つめあって自分を俯瞰で見て他人を見て考えて考えて考えることが大好きです。だからと言って私は自分のすべてが内向的だとは思いません。どちらかというと外向的だと思います。要するに、人は内向的な部分と外向的な部分、どちらも持ち合わせていると思うのです。個人の中でそのバランスを保つことはとても重要なことだと思います。少し視野を広げてみると、それは社会の中でも言えることだと思います。And what I'm saying is that culturally we need a much better balance.(私が言いたいのは社会として両者をもっと上手くバランスさせる必要があるということです。)その通りだと思います。社会において、外向的な人が得意な仕事もあれば、内向的な人が得意な仕事もあります。社会にはそれらの仕事に対して同じだけ需要があります。だからどちらのタイプの人間もいなくてはならないのです。決して内向的な人がいけないということはありません。そのような人も必要なのです。内向的だからと言っていじめられる、なんてそんな根拠どこにもありません。いじめはあってはならないですが、もしいじめがあったとして、理由は「内向的だから」ではなくもっと他にあるはずです。したがって、私は「内向的」と「いじめ」の間には関係性はないと思います。




私は、この「スーザン・ケイン 内向的な人が秘めているパワー」の動画を視聴して、内向的な人や外向的な人の長所や短所を互いに理解しあって、協力のできる社会をつくればいじめは解決できるのではないのか、と思いました。スーザンさんは動画の中で、「内向的な人」と「内気な人」は違うといっていました。スーザンさんは内気な人、というのは自分から世界にかかわろうとしないで、自分の殻に閉じこもっている人のことだといっていました。しかし、今の外向的な人が優位であるといわれている、今の世の中では私は、「内向的な人」=「内気な人」になっているのではないか、と思いました。内向的な人が外向的な人に自分の行動や世界観を否定されてしまい、自分が変だと指摘された内向的な人はとても繊細なので自分の殻に閉じこもってしまう、だから内気な人になってしまうのではないか、と感じました。どちらかというと内向的で、実際に物静かにしていたり、あまり集団で行動するよりも一人で考えたりするほうが楽しいと思っている私も、そういう一人が好きだったりする考えが変だと指摘されて傷ついたことがあります。私から見ても、外向的な人は誰とでも仲良くなったり、すぐにリーダーシップを発揮できるところはとてもうらやましいと思います。たぶん今の社会の仕組みが、外向的な人向けになっているのは自分から放っておいても集団をうまくまとめることができるから楽、と思われているからです。でも、私は今の学校や会社の仕組みが外向的な人向けだからいいとはおもいません。スーザンさんが動画でいっていたように外向的な人は積極的な反面、他人のアイディアを見落としたり、自分の意見を無理やり押し付けがちだというリスクもあります。また、社会が外向的な人まかせになってしまえば、他の人たちがその人だけに依存してしまい、自分で考えるということがなくなってしまうと思います。やがて何かトラブルがあったときにその人だけに問題を押し付けてしまい不和が起こる、ということがあると思うのです。内向的な人は他人と関わるのが苦手だということもありますが、一人で考える時間を与えれば、すばらしいものを思いついたりすることが出来る、という利点もあります。私は外向的な人がない公的な人とうまく打ち解けあい、協力し合い、うまくやっていけるような社会にするためには内向的な人に一人で考える時間を与え、外向的な人がその意見をちゃんと聞き入れてうまくアイディアを活かせるような環境を作るべきだと思います。具体的には、学校などの教育機関でもいえることだと思います。内向的な人が外向的な人とうまく渡り合えるするためには、スーザンさんが動画でいっていたような、席をすべて4~7人の島にして、数学や英語など、何もかもグループ学習を中心にするのではなく、たまには一人で考えさせる、という教育をしたほうが良いと思いました。また、私は、内向的な人がいじめにあってしまうということに、親の権力や外向的な人の影響力というものがあることに気づきました。私はこれをなくすべきだと思います。最近、いじめている加害者の親がPTA会長だとかお金持ちだとかそういう話をよく聞きます。私は、人はみな平等だとか、公平だとかと教えている学校でそんな不公平なことがあってはいけないと思います。私はPTA会長というものは、いつからただの権力の塊になってしまったのだろうと思います。私はPTA会長というのは全校の親の代表で平等で親の鑑になるような人がなるのだろうと、考えているのですが、そんな人が先生に文句を言い、言いなりにさせるためだったり、自分の子供がいじめや暴力行為をしたときにちゃんと謝ったり自分の子供を叱ったりせず、自分がPTA会長ということを利用して逆ギレをすることに使うような肩書きだとしたら、私はそんなものは廃止すればいいと思います。また、ちゃんとした審査をして決めるべきだと思います。私は今の教育の現場が先生がちょっと弱腰だったり、権力がはこびっているからいじめが生まれるのだと思います。最近はモンスターペアレントとよばれる人たちがいたり、先生たちも対応が大変だと思いますが、そこで弱腰になったり、言いなりになったりするのではなく、たとえどんな人が親や、生徒でも「やっていいこと」と「悪いこと」、権力などの干渉を払拭して、先生が平等に接することや一人で考えさせる時間を設けたり、内向的な人の能力も認めることが、外向的な人も内向的な人ものびのびと生活ができ、いじめを減らせるだろうと思います。




いじめ問題がなくならない理由は、1人でいる人がおかしいと思ったり、ほかの人と違う人を嫌ってしまう考え方をしている人が多くいるからだと私は思う。そういった偏見をなくすためには、内向的な人のいいところ、外向的な人のいいところを理解することが重要だと思った。スーザンケインさんが言うように、外向的で行動力をある人のほうが好まれる場合が多いが、内向的な人のほうが成績がよかったり、大きな想像力を秘めていて、外向的な人より力を発揮できる場合が多い。というのは私も納得した。内向的な人にも自分の考えがあって、それを理解してあげることが重要だと思った。外向的な人のなかにも無理をしてまわりの目を気にして内向的な面をださない人がいることは、あまりよくないことだなと思った。人は自分が行動したいように行動し、まわりに動かされないような考え方をすることで力を発揮できることをみんなに理解してもらうことで、いじめ問題ももしかしたら少なくなっていくかもしれないし、これからいろんな発想も生まれて社会的にも良い方向につながっていくのではないかと感じた。スーザンケインさんが言うように外向的な人の意見と内向的な人の意見を組み合わせることはとても良いことだと思う。それぞれの違う考え方を理解することで新たな発見をすることもある。



私がこれまで生きてきた中でも、外向的な人がいじめられるのを見たことはほとんどないです。どうしてなのでしょう?外向的な人は、明るくて活発で、親しみやすいという人がほとんどです。そーいうひとはリーダーシップをとることが多いので、周りの人たちがなにげなく集まり、団体でわいわい楽しむことが多いんだと思います。きっとどこの学校でもそういった感じでしょう。逆に内向的な人ほど、そういったことが苦手で、自然と外向的な人たちから離れていってしまいます。うまくコミュニケーションがとれなかったり、周りのテンションとかについていくことができず、自分の意志もうまく伝えられずに自然とグループから疎外されたようになってしまいます。そこの違いによりいじめが生まれることがほとんどです。同じ人間を傷つけて何がしたいのでしょうか?何が楽しいのでしょうか?私にはさっぱり理解できません。よくいじめていた側の人が「いじめているつもりは無かった、遊びのつもりだった」などと言いますがいじめられている人がいじめだと感じたらそれはもういじめだと思います。さらに最近のいじめの理由がくだらない理由ばかりのような気がします。暗いから、不潔だから、気持ち悪いから、弱いからなど理不尽すぎるいじめの理由が増えてきたと思います。しまいにはなんとなくいじめたなどと理由があります。そんな気持ちでいじめる人の意味がわかりません。いじめている側に罪悪感はないのでしょうか?そんな理由でのいじめで自殺する人だって少なくありません。もしいじめられている人が自殺したらいじめていた側の人は責任をとることができるのでしょうか?死んでから罪悪感を感じたって遅いのです。肩書きは自殺ですがいじめていた人が殺したのと一緒です。私も、外向的な人ほど、内向的な人を尊重してあげるべきだと思います。外向的な人が内向的な人の悪いところばかりを見て、どうでもいい理由でいじめをするなんて許せません。プレゼンで聞いたように、内向的な人は外向的な人の何倍も素敵な独自の世界観があります。今後活躍できるような将来のためになるような考えを持っている人もいます。外向的な人は、そーいうのを引き出していかなければなりません。内向的な人の秘めてる力なんて知らずに外見だけで決めつけていじめをして、その人の世界観や考えを潰し、心を殺し、自殺をさせてしまう。そんなのもったいなさすぎます。今そのようないじめをしている人に、ほんとにこのプレゼンを見てほしいです。内向的な人の本当のすごさに気付いてあげてほしいです。



最近いじめによって自殺してしまう子供が増えている。今月は札幌市でもあった。それはなぜだろう、と思う。いじめ問題が多発して注目されているのになぜ誰もこの問題を止めてくれないのかなと思っている。私は、内向的な子供はあまり意見を言いたがらないのだと思う。「いじめられているのが恥ずかしいから誰にも言わない」「誰も相談相手になってくれない」など先生や友達だけでなく親にも言えずに一人ですべて抱え込んでしまう子供が増えてきているからこの問題も全然消えないのだと思う。では、どうすればそのような子供たちの相談相手になってくれるようになるのか。今はスクールカウンセラーという制度もある。いじめられている子供たちだけでなくだれでも入っていける仕組みになっているはず。だから逆に内向的な子は入りづらいのかもしれない。「中で誰か知っている人がいたらどうしよう」と思ってしまうに違いない。だから昼休みだけでなく誰にも見られないような時間…たとえば放課後で夜にかけて入れる仕組みにすればいいのではないか。放課後は部活などしているしそれ以外の生徒は下校すると思うのであまり目に入らないで人目を気にすることなく入っていけると思う。またスクールカウンセラーさんのいる教室自体をあまり人目に入らないような場所にするなど工夫すればきっともっと相談しやすい場所になるはずだ。また、市町村などでしている電話サービスも有効的だとおもう。誰もいないところで電話できるからだ。ただその制度自体あまり知られていない気がするからもっとワイドショーなどで取り上げてメジャーにすべきだ。でもそのような工夫だけではなくてやはり担任の先生や両親が生徒の異変に気付いてあげるのが一番だと思う。先生も見て見ないふりする人だって多いはず。でもそれで何人もの未来ある子供の命が無くなってきてしまっているのだ。いじめられている子供は絶対つらいはずだから誰かが助けの手を差し伸べてあげなくてはいけないのに先生まで無視していたらその子の逃げ場がなくなってしまう。確かに先生方だって、怖いとか思うかもしれないけどいじめられている子のために勇気を出して相談相手になってあげるべきだ。両親だって、することは同じだと思う。でも先生より近い関係だし他人に言えないことも親にだったら言えるはずだ。家では変化になかなか気づきにくいかもしれないけど、学校で会った話を聞いてあげるとかコミュニケーションをとってあげることが何より大事。仕事で忙しい時でも子供と会話しえあげれば、その子もきっと心を開いて仲良くなるはずだ。<TEDを見て>「私が言いたいのは 、社会として両者をもっとうまく バランスさせる必要があるということです 。陰と陽のように両方必要なのです。」私はこのプレゼンを見るまでは内向的か外向的のどちらかのパターンしかないと思っていた。でも違った。世の中には内向的でもあるし外向的でもある、両方の人間がいるんだということはあまり気づかなかった。そして、その両者をバランスよく持ち合わせている人が社会でうまくやっていける。考えてみれば、内向的過ぎても人と会話できないし、外向的過ぎたら頭で考えることはあまりないのだと思う。今までは外向的ならばいいと思っていたけど、内向的な人もいいところはたくさん秘めている。だからこそ両方持ち合わせている人が社会でうまくやっていけるんだということに今日これを見て初めて気づかされた。「 内向的な人がもっと自分に合ったやり方でできるようにすれば、彼らがそういう問題に 独自の解決法を考え出してくれる可能性が高くなるということです。」何か問題を解決するのは多分いつも外向的な人だと思う。その場の流れを変えることができるのは内向的な人は無理だと思うからだ。だから、内向的な人が問題を解決するような機会があればきっと今までとは違うように解決するのかもしれない。私はこの人のプレゼンを聞いて、今まであまり考えられていなかった内向的な人について考えることができた。きっといじめられている人もこういう内向的な人が多いはず。でも、今日気づかされたのは内向的な人は未知なる可能性があるということだ。あまり話したがらないかもしれないけど、話してみたら今までとは違う新しい何かを発見させてくれる手掛かりになるのかもしれないなぁ、と思った。



いじめが原因で自殺している人は年間で約3万人にも上るという。1000年に一度しか起きないとまでいわれる東日本大震災の死亡者は約2万人とされているので、その数字の異常さがよくわかるだろう。いじめというのはなぜ起きるのか、ということが話題にだされ、それを解明しいじめ問題をなくそうという考えはよくあるが、現状ではまったく解決できていない。おそらくいじめる側の人間がその行為といじめだと思っていないケースが多いからだと思う。もちろん、いじめる側の人がその行為をいじめだと知っていながらもいじめを続けるというケースもあるとは思うが、半数以上は前者だろう。ふざけて内向的な性格の人をいじってみたり、笑いをとろうと思っていじめまがいのことをしてみたりすることが深刻ないじめへとつながっているのだと思う。なので、いじめ問題をきっかけからなくそうとするのは大変難しい。なぜなら、「いじめ」と「いじり」の判断が難しいからである。その二つの標的となるのは大抵内向的な性格で比較的一人でいる時間が多い人だろう。複数対一人は圧倒的有利を保てるからである。しかし、一人でいる人にコミュニケーションをとるということはむしろいいことなのではないか、もし自分が周囲の人とあまり仲が良くない状況の中で話しかけてくれる人がいたら嬉しいと思う。しかし、内向的な人と外向的な人には決定的な違いがある。それは大人数で騒ぐのが好きか、一人で読書などをしているほうが好きかということだろう。おそらく、いじめる側の人間は外向的な性格で、いじめられる人は内向的な性格のパターンが多いと思う。外向的な人は一人でいる内向的な人を見たら一緒に話そう、話したほうが相手のためになると思いコミュニケーションをとるが内向的な人にとったらそれはありがた迷惑な話である。しかし、一人でいるからといって内向的な性格だとは限らない。先ほどの例に出したように、周囲の人とはうまくなじめないが本当は話をしたり、輪に参加したい消極的かつ内向的な性格の人もいるのである。だから、いじめをなくすためには根本ではなく外向的な人は内向的なひととどう接すべきか、を考えたほうがより効果的なのではないだろうか。正直、自分のしている行為がいじめだと知りながらも続けるような最低の人間は個人に注意を呼び掛ける、もしくは罰しなければなくならないと思う。外向的な性格の人が内向的な性格の人とうまく接するには、まず、内向的な性格の人を知らなければいけない。外見や行動だけでただ無口な人だとは判断せずに何を考えているかやなその人の世界観などである。内向的な性格の人は外向的な性格の人より大きい世界観を抱えているという。何が言いたいかというと、TEDでもあったようにバランスが大事だということだ。外向的な性格の人はアイディアを交換し、発展することに優れ、内向的な性格の人は想像力に長けているのである。両者が両者を尊敬し、理解することで、両者の関係は成り立つだろう。なので内向的な人も最初は積極的にほかの人とコミュニケーションをとることが大切かもしれない。




いじめ問題について、スーザン・ケインさんのプレゼンテーションから考える解決策。スーザン・ケインさんは人間には三つのタイプの人がいると言っています。内向的な人、外向的な人とその両方をあわせ持つ人です。内向的な人は物静かであまり目立つことのない人だと言っています。外向的な人はその逆で騒がしく、グループになっていることが多いと言っています。例えば、学校などでは本ばかり読んでいてあまり人と話さない人が内向的であり、みんなといつも輪になっていつも誰かと一緒にいる人が外向的です。その中でも両方をあわせ持つという人はみんなと一緒にいて話したりするときもあれば、本を読んだり静かだったりする時もある人だと思います。しかしスーザン・ケインさんが言っていたように、学校などでは外向的な人が評価されるものです。なぜなら、人とのコミュニケーション能力や明るさが特に目立つタイプだからです。しかし外向的な人よりも内向的な人のほうが深い考えをすることができ慎重です。どちらがいいとか悪いとかではなく、その人が持っているいいところをのばすべきだと思います。さて、スーザン・ケインさんのプレゼンから今日本で起こっているいじめ問題について考えました。まずいじめはどうして起きるか?ということから考えました。スーザン・ケインさんより外向的な人は他人と群れることが多いそうです。そして、逆の内向的である人は一人のときが多いです。そこで問題が起きます。外向的な人達が内向的な人に対して攻撃をするのです。なぜなら自分たちと一緒にいる人と内向的な人は少し違うと彼らが思うからだと思います。そこがいじめのはじまりなのです。 さらに内向的な人は「いやだ」「やめろ」などというのが難しかったりもするのです。なぜならそのいじめが誰にやられたのか分からないからです。あまり言いたく何のですが自分は中学のときがそうでした。学校では常に本を読んでいました。その本が楽しかったからなのです。誰がやってくるのか分からない靴かくしなんていつもありました。無視されたり影で聞こえるように悪口を言われたりと・・・。しかし自分の場合そんなことされてもひるみませんでしたね。自分というものをしっかりもっていたからか、また剣道の方に仲間がいたからかもしれません。しかし、今起きているいじめ問題ではこんなこと序の口なのかななんて思います。聞いた話ですがひどいですからやり方が・・・。いじめというのは「遊び半分でも相手が虐めと思えばいじめ。」ですよね。いじめられている側から考えた場合、親も子どもの変化に気がつくと思います。「じゃあ気付いたのなら話し合ってやれよ」と自分は思いますね。だいたい教師も気付くと思いますよ。毎日会って生徒を見てんですから。分かると思いますよ普通は。それを何かわからないけど何も言わない親や教師が悪いと思います。いじめている側の立場で考えると、「ふざけんな!!」って言ってやりたいです。物事には限度というものがあるのです。「過ぎたるは及ばざるがごとし」まさにいじめのことでもあると思います。分かりますよねここまではやっていいとかこれ以上やったらやばいかもと。それを分からずにずっと続けているいじっこはなんなんだ。自分が外向的で、仲間がたくさんいるから強い。「ばかじゃねぇのか。」それに耐えることができたいじめられている側の人間のほうがよっぽど強いと思いますよ。その人がいつか社会に出て、人とかかわることができたらものすごいパワーを発揮すると思います。最後に、いじめ問題は必ず起きることだと思います。しかし、その問題に対しての親、教師の行動、いじめを受けている人がどれだけ我慢し、自分から一歩踏み出せるか、いじめている奴らが加減を知り限度というものを覚えるかが、解決策だと思います。または、そのほかの生徒が見ている、分かっている、気付いているので、止めることができる勇気があるか助けることができるかが大事だと思います。長々と書いて、途中で感情が入って語ってしまいすみません。自分の思っていることが言えました。ありがとうございました。




自分も内向的な人だと思います。発言するのも嫌いではなく、みんなの前で話すのも苦手ではありません。しかし周りの人たちがあまりにも外向的に振る舞う人が多いので、自分は周りの状況を判断して、目立ちたがるのを控えます。もし、その外向的に振る舞っている人たちと私が親しいのであれば、私ももっと会話に進んで参加して、外向的に振る舞うでしょう。しかし,そうもっと生き生きしたいと思っていても、心のどこかでそれを無意識に否定しているのだろうと思っています。他人から見れば自分は楽しそうにその集団と会話していても、私の本心では、その会話に興味がなく、テンションが上がりすぎてむしろついていくほうが疲れるなんてこともよくあります。だからそんなくだらない(というと言葉を選ぶ必要があると思いますが)ことで疲れるよりも、自分が話をしていて本当に楽しい相手と内容を選びます。もし私が今、クラスに友達と思える人が一人もいなくて、自分の居場所をさがしている場合を除いて(それも集団のなかで参加して、友達になっているそぶりをしているだけの中身のない「友達」になると思いますが)無理して外向的な集団に首を突っ込む必要はないと思います。なぜなら私には自分のことを話せる「友達」がいるからです。私は友達を作る必要はないとは思いません。むしろどんなに内向的な人でも少なくとも一人は頼れる友がいたほうがいいと思います。それでもみんなが集まって楽しそうにしているなか、自分一人が集団から外れていいると、なにか別物扱いされるような目で見られてしまうものです。最近はそのようなことはありませんが、そんな状況になってしまいそうな時はスーザンさんが"self - negating choices"と言っていたように、自分を犠牲にして、集団に溶け込んで環境を整えます。みんながワイワイガヤガヤ楽しむ集団もいいのですが、ずっと続けていると精神的に疲れる内向的な人たちのことも考えて行動してほしいなと思います。とくに公共の場では他人に迷惑を与えることもあるので、それでとくに暴れてない自分が同じような目でみられるのはいやです。そんなことが嫌なら最初から関わらなければいいと思いますが、無意識に環境に合わせようとしてがんばっている自分がいるのだなとわかりました。さて、具体的ないじめ対策の話に移りますが、外向的な人と内向的な人のどちらがいじめられるイメージが強いかというと、やはり内向的な人だと思います。この内向的な人はいじめられる理由にはなにかみんなと違うオーラを出している、持っているのではないかと思います。外見、話し方、考え方、性格。これらは人それぞれ個性があるのがあたりまえのはずなのですが、そなかでもクラスの中で浮いてしまうと、集団から外されて、いじめにつながるのではないかと思います。たとえ元々は外向的な人であったとしても、その浮いてしまう個性でいじられ、内向的になってしまった人もいないわけではないと思います。いままでの児童・学生の自殺問題も見る限り、たいていの子は家族や先生など信頼できずに他人に迷惑、心配をかけないよう全て一人で背負いこんでしまう傾向が強いと思います。この罪悪感を和らげてあげるのが自殺を防ぐ一つの対策だと思います。気持ちを楽にさせてあげられるのは本人が一番信頼している人だと思います。苦しみを言葉にしてだれかに訴えることだけで気持ちは楽になるはずです。普段は内向的でも信頼できる人の前ではいつもよりかは本当のことを話せるはずです。 これではいじめの直接的な解決方法にはなりませんが、命を守ることはできるかもしれません。他の記事を見ると、高校時代はずっといじめられていたが、卒業するととたんにいじめがなくなったと話している人もいます。生きることで希望を見いだせることもできるのではないかと思います。とにかく、だれか一人、信頼できる人を作ることが一つのいじめ対策だと思います。



今まで、内向的、外向的であることについて特に何も気にしていませんでしたが、今回のプレゼンを見て、“内向的な人”について初めて考えました。“外向的な人”については、「楽しそう」「明るい人」「友達がたくさんいる」などのイメージがあり、私もどちらかというと外向的な方ではあると思いますが、自分より外向的な友達を見て羨ましく思うこともよくあります。しかし、今回思ったのはその反対で、“外向的な人”だけではなく“内向的な人”にも、優れていてすごい能力があるんだ、ということです。私は、スーザン・ケインさんの言った「内向的な人がもっと自分に合ったやり方でできるようにすれば、彼らがそういう問題に独自の解決法を出してくれる可能性が高くなるということです。」という一言を聞いて、とても納得しました。特に、“独自の解決法”というフレーズです。“外向的な人”には社交性があり社会的スキルがある代わりに、いつも誰かと行動し意見を交わしていることによって、周囲の意見に賛同してしまい、“独自の意見”はどんどん失われていくのではないかと思います。その反面、それがない“内向的な人”は自分だけの世界観があり、他の人からはなかなか出せないような意見があるでしょう。それなのに、そんな“内向的な人”を自殺で、しかもイジメが原因で失うのは悲しいです。また、自殺で亡くなるひとが1000年で、今の人口の4分の1もいるのは本当に深刻な問題だと思います。“内向的な人”だけでなく、全ての人がイジメの無い、自分を出せる環境にいれるようになって欲しいです。



いじめをなくすにはまずいじめられるような人を作らないことが大切だ。もしそのようなことができれば確実にいじめは大幅に減るだろう。いじめられる人の原因として考えられるのは性格が暗かったり、人と接するのが苦手な人だ。なぜそう考えたかというとそのような人はその性格ゆえどうしても友達ができなかったり一人ぼっちにで、孤独になる。そのような人がいじめの対象にされやすいのなら誰でもいいから話しかけてあげ、手を引いてあげればいい。こんな簡単なことをするだけでいじめは少なくなり、学生のいじめによる自殺は減るのに何故みんなそれができないのか。それはおそらくいじめられているもしくはクラスで浮いている人と関わると自分もいじめられてしまうと思っているからではないだろうか。でもそのようなことを考えているのはひとりではないはずだ、なんなら沢山いたっておかしくおかしくない。なぜならクラス内で浮いてる人は絶対にわかる、暗い人だって暗いということで目立っているのだ。だからそんな人を助けたいと思う人は一人では無理なら3人、4人で話しかけてあげれば良い。そうすれば「意外と話しやすいじゃん。」、「もっと前から話せばよかった。」など新たな発見があるかもしれない。そうすることによっていじめもなくなりよりよい学校生活になるに違いない。みんなもクラスにいじめがあるのとないのとではいじめがないほうが良いにきまってる。なので誰かが勇気を持っていじめられている人に手を差し伸べることでいじめがなくなり自殺がなくなりクラス皆が仲良くなりもっと楽しい学校生活になり、とにかく良い事しか生まれないのだ。だから今の学生は孤独にさせない勇気をもってほしい。しかし、本当に内向的な人は無理やり自分がしたくない事を強制される事に苦痛を感じるかもしれない。もしかしたら「自分は他の事をしたいのに…」などと思っているかもしれない。そんなことでは声をかけた側は自分は助けてあげようとしたのに内向的な人にとっては全くの無駄となり逆に嫌な思いをすることになる。そうなってしまうと空回りしてしまって逆効果を及ぼすかもしれない。なのでただ声をかけて一緒に過ごし同じ事を共用させるというのではなく声をかけてあげる人は相手がどのようにしたいかなど意見をしっかり聞き両者が無理なく楽しめる関係を作っていくのがベストだ。



イジメのターゲットとなってしまう人は、 ほとんどの場合内気な人であったり、 内向的な人となってしまうと、スーザン・ケインさんのプレゼンからわかります。 内気な性格の人は周りに合わせるのが苦手で一人でいることが多く、 その分、 常に友達とつるんでいる外向的な人と比べてターゲットとなりやすいのだと思います。内向的だった スーザン・ケインさんは子供の時に参加したキャンプで、 好きな読書をせず半ば強制的に他の参加者とワイワイ騒ぐように世話役の人に言われたそうです。 外向的な性格の人は社会で大活躍できそうなイメージがありますが、スーザン・ケインさんが言っていたようにむしろ内向的な人でも社会にとても貢献していると思います。内向的なリーダーの元での会議のほうが、 仕切ることを楽しんでいる外向的なリーダーの時よりも周りを引き立たせることができて議論が弾むというスーザン・ケインさんの考えにはとても関心させられました。自分が小学生のときも、 スーザン・ケインさんが話していたように委員会のような形式での授業が多く取り入れられていた記憶があります。確かにそのような形式での授業はコミュニケーションをとる力もつくし、 将来少なからず役に立つと思いますが、自分一人で解決できるまで悩み続けるというのも大切だと思います。委員会形式の授業で周りの意見に流されてしまって自分の意見を打ち消すことに慣れてしまったりする場合も少なからずあると思います。それが大きくなったときにイジメに加害者として参加するよう促された場合、周りに流されるがままに、自分の意志もないままイジメに加わってしまう可能性が少なからずあると思います。イジメをされる側にも問題はあるという人もいますが、わたしはそれは違うと思います。内向的な人も外向的な人も同じ人間で、性格が違うだけです。イジメの始まりは、加害者側のストレスを八つ当たりのように他人をからかう事だとおもうので、その加害者側の人のからかいにも、自分が同じからかいをされた場合嫌だと思うことはしないなど、節度をもった言動をしたらイジメの原因は減ると思います。また、からかわれている側の人も、イジメまでは達していないにしても自分が嫌だと感じた時点でその加害者側の人に言うことが大切だと思います。内向的な性格の人は、おそらくこの自分の気持ちを伝えるのが苦手なのだと思いますが、勇気を持って相手に伝える事によって相手も理解してくれると思うので、自分の性格を乗り越えて一歩踏み出せたらイジメは減り、それによる自殺者の数も減ってくると思います。



最近、学校でいじめがあって自殺した男子中学生がいます。夏休みの宿題が終わらないからという理由だけで自殺しようとした小学5年の女子児童がいます。年間3万人もの自殺者がいるといわれています。私ははたして自殺はなくなるのだろうかと疑問に思います。無くすためにはまず、いじめ問題についてどうにかしなければなりません。日本ではいじめによる自殺がとても多いです。学校などでいじめられ、自分の存在価値を見いだせなくなった人が自殺してしまい、最近のニュースなどを見たら加害者側の反省のなさが目に留まります。命が軽く見られている証拠です。同じ人間であることを疑ってしまいます。しかしいじめというものは昔からありました。差別などもたくさんありました。年々自殺者は増えて、ネットという新しいいじめも出てきました。いくらいじめを減らして自殺者を減らそうとしても意味がありません。だからいじめは無くすことができないのかなと考えていた時期がありました。でも、考えることをやめてしまってはどうすることもできません。私は、周りの大人がいつでもサポートに入っていける体制をとることが大事だと思います。そして学校内をいじめが起きてしまうような雰囲気を変えていこうと努力していくことが大事です。現代の子は心が弱く繊細だと思い、なので周りの大人に頼るかできないと直ぐに壊れてしまうと思います。誰もが加害者であるという考えに至ることによっていじめを減らし自殺者を無くすことができるのだと思います。



このスーザン・ケインさんのプレゼンを見て思ったことはこのような考え方はとても大切だなと思いました。このように内面的な人にも秘められているパワーがあることを世界中の人にも知ってほしいと思いました。ここで本題へ入るとイジメという問題は被害者側が反発しても返り討ちにあったりする場合がほとんどなので絶対に他人による援護が必要だと僕は思っています。しかし多くの場合そのイジメのことを親などに言えなかったりする。内向的な人ならよりその傾向が強いと思われます。でもそこで勇気を振り絞って誰かしらに言わないことには状況は全く変わらずその後そのまま追い込まれて自殺という行動に出るのかも知れません。このようなことを未然に防ぐにはまず近くにいる教師や親が子供の変化に気がついてあげたりすることや、イジメのコールセンターなどへも気軽にかけれるような環境づくりを徹底させなければならないだろうと僕は思います。もちろんどこかの学校のいじめ事件みたいに教師まで一緒になっていじめに参加していたりいじめを容認もしくは黙認していたというのは言語道断である。もちろんそれは教育委員会も例外ではない。そしていじめてる側の人にはなぜそのような行為に出るのかを真剣に聞いてみなければなりません。まあ、ほとんどの場合はうざいからや気持ち悪いからといった1個人のかってな主観的判断による場合と面白いからといった自己中心的なものといった2パターンの理由になるだろう。前者の場合はその主観的な判断だけでいじめているのはおかしいということがいえるだろうし後者の場合は実際にいじめられている人が受けたことをそのまま加害者もしくはグループにやり返してみればいいだろう。そうすればいかにいじめられている人が面白くなくてとても苦しいことなのか身をもって知るだろうと思う。もちろんこれには協力者が必要不可欠である。そのためにもさっき言った通り環境をより一層整備していく必要があるだろう。そして内向的な人も一歩踏み出す勇気を持ついい機会になることだろう。ここで実在例を一つ取りだしてみると、うちの学校には学びあいという一風変わった授業がある。これは教科担当の人に言わせてみると社会人基礎力をつけたりコミュニケーション能力を高めるために取り入れているらしいがその内容はわからないところを生徒同士で教えあいわかるようにしていくだけでなく教えた人もそれでさらに理解を深めていくというウインウインの関係だそうだ。しかしこれはあまり話したことのない人とのきっかけづくりになり得たりしていいと思う。このような関係作りも大切だと思う。今の時代では他にもインターネットの普及がいじめに拍車をかけているだろうと思う。そして内向的な人はリーダーにはならないようにあまり目立ちたがらないゆえにいじめられるのかもしれない。しかしスーザン・ケイルのTEDトークによると「内向的なリーダーは外向的なリーダーよりも良い結果を生むことが多いというのです内向的なリーダーは 積極的なメンバーがアイデアを出して活躍できるようにさせる一方外向的なリーダーは 気づかぬうちに何でも自分で仕切ることに夢中になって他の人のアイデアがなかなか活かされないようにしてしまうのです」といったような言葉の通り内向的な人にはまわりを上手く引き立たせられるような能力があります。自信を持って自分が正しいと思うことをやっていけば必ず結果は付いてくると思います。そのことを外向的な人は見えてないだけだと思います。スーザン・ケイルのTEDトークでは「外向的なリーダーは 気づかぬうちに何でも自分で仕切ることに夢中になって他の人のアイデアがなかなか活かされないようにしている」と述べていてそのことにもきずいておらず上手く仕切れていなくて自己中だと思われてしまっているだけかもしれずお互いに誤解し合っているだけなのかもしれません。このような溝を上手く埋めきれればお互いを尊重しあってわかりあえていじめようという気持ちもなくなるかもしれません。あくまでも持論ですが。結論はお互いにお互いの心情をわかりあって尊重し合って初めていじめはなくなるものだと思っています。



本を読むことは自分に多くの知識や、また違った世界への見方・考え方をもたらしてくれます。たとえば、物語を読む際には多くの登場人物がいるので、「自分とは違うこんな人がいて、こんな考え方があるんだ。」と感じます。だから、本を読めば読むほど、自分の世界は広がっていくのではないかと私は考えています。しかし、社交的な人たちは本ばかり読んであまり話さない人に対して話しかけにくいイメージを持っているようなのです。内向的な私はまわりの人にもっと話しかけてほしかった。しかし、周りの人たちは私に対してそんなふうに思っていたことがわかって、少し自分から話しかけてみようと思いました。そしたらだんだんと周りの人たちが話しかけてくれて、仲良くなることができました。また、話してみて見た目だけではわからないその人の性格もわかったのです。社交的な人はもっと内向的な人を尊重すべきだと思います。内向的な人は読書にかぎらず、素晴らしい考え方(内に秘めたパワー)を持っているのですから。しかし、内向的な人はいつまでも自分の殻にとじこもっていては何も変わらないので、少しでもいいから頑張って話しかけてみれば、意外と普段の生活が明るくなるかもしれません。おとなしくて目立たないのをいいことに、人をいじめるのは良くないと思います。いじめられた人は嫌な思いや辛くて苦しい思いを他人に話すことが苦手で、なかなか相談できないからです。内向的な人も社交的な人もお互いが少しでも気持ちや考え方を変えれば、いじめは自然となくなるのではないかと私は思っています。



内向的な人はいじめで標的にされやすい。ということは日本は未来どうなるかわからない可能性にあふれている人材をいじめで毎年何万人も失っているということになる。これは日本にとって厳しい状況だろう。スーザン・ケインさんは内向的な人が世界にものすごい才能と能力をもたらしていると説明している。内向的な人がそんなにすごい能力をもっているなんて周りからは読み取れない。このプレゼンを中学や高校で聞かせたら何かいじめをする側の人がいじめをされる側の人に対する態度が変わるかもしれない。だが、「内向的な人は才能や能力を秘めている」ということをネタにしていじめをし続ける人もおそらくいる。いじめ問題をなくすためにいじめをする側を変えていくのは難しいかもしれない。内向的な人に無理に孤独な世界観をやめて、外向的、社交的になってほしいとは思わない。しかし、自分の意見や考えを知ってもらうためにも、自分が苦しいときに助けてくれるような人を見つけるためにもやはり社交的な能力も多少は必要になってしまう。スーザン・ケイルさんは「内向性はもっと評価され奨励されるべき。」だと言っているが、内向的な人が世界にものすごい才能と能力をもっているからといって、外向的な人よりも特別扱いされるのも少しおかしいと思う。外向的な人も自分の考えをしっかりと持っているし、内向的な人を手助けしてくれる存在になることだってできるはず。内向的な人、外向的な人、どちらとも評価されるべきだと思う。



いじめとはどういった人間がうけるのだろうか?周りの人間と楽しく会話できたり、他の人々の前で何かしたい、目立ちたい外向的な人間なのか?それとも一人で読書したり、あまり人と会話しない内向的な人なのか?おそらく多くは内向的な人間が受けるのだろう。昨年の三月に起きた東日本大震災で津波等で死亡した人は約二万人。現在いじめが原因で自殺している人の年間の人数は約三万人である。この結果をどうとらえるか?これはれっきとした社会問題だ。なぜ内向的な人間がいじめの対象になりやすいのか?基本外向的な人間には友達、仲間が多い。しかし内向的な人間はそれがきっと作ることが難しいのではないか。仲間の多い外向的な人間の集団はみんなでなにか面白いことはないかと考える。そこで内向的な人間をバカにしたりといじめに発展していく、何か自分より劣っているという変な気持がおきていじめに発展してしまう。しかし内向的な人間は外向的な人間より劣っているのか?そうではないだろう。たしかに外向的な人間に比べると人とコミュニケーションをとるのは下手だが、自分の世界、自分の考えを外向的な人間より多く持っているはずだ。読書に明け暮れる毎日を送っている人ならば、本の中身やその著者の考えを理解する力は外向的な人間よりもかなり優れている。何か作ることに没頭している人はクリエイティブな思考やアイデアを生む力はとても高い。外向的な人間ができないことをできるのだ。だから決して内向的な人間が外向的な人間よりも劣っていることはないのだ。じゃあその異なったタイプの人間が協力すると、学校だけではなく、社会全体が変わっていき、大きく前進していくのではないか。内向的な人間の豊富なアイデアを外向的な人間が周りの人間、日本全体、世界全体に広げられれば、世界的な厳しい問題でも解決で来るのではないのだろうか。話は少しずれたが周りの人間はそれぞれ個性を持っている。だから正直ぶつかり合うのは仕方がないことだと思う。でもそれが不利な条件でいじめに発展するのはよくない。難しいことかもしれないけどその個性をお互いにわかってあげていくことがなにより大切なのだ。だから教師や保護者、政府もその問題に対して真剣に考えていかなくてはならないのだ。



まず、TEDでスーザン・ケインさんのプレゼンを見て思ったことは、不必要な人間なんかこの世界にはいなくて、なおかつ世の中をバランスよく生きることが一番大切なんだということです。最初に、世の中を内向的な人と外向的な人に分けた時、ケインさんは自分のことを内向的なグループに入ると言っていました。私も考えましたが、どちらにも当てはまる気がしました。大騒ぎするときは大騒ぎするし、静かでいたいときは静かに一人でいたり、黙ってその場の作業に取り組んだりしています。ケインさんが調べた調査によると、世の中の人間はほとんどが外向的な人を好み、内向的な人を排除しようとしてしまうそうです。学校の先生も、仕事場の上司も、みんなが外向的な人間を好むのです。そして、世の中はどうやら外向的な人向けに社会が成り立っているようです。それは昔と違い、学校において、グループでの学習や活動が盛んになっていたり、職場において開放的な空間でみんなと仕事をしている今の現状より考えることだと述べています。確かに授業や学校での活動をグループになって行うことはたくさんあります。それはみんなと打ち解けたり分かち合ったり、また仲良くなったりする良い機会だと思うし、友達やクラスメイトと一緒で楽しいと感じると同時に、私が自分一人で作業したいなと思う時、内向的である時はグループでの活動を楽しいものだと感じることはできません。私も、ケインさんの考えと同じく、にグループ活動を行うにあたって、それが嫌だと感じる人間が絶対何人もいると思います。だから、なんでもかんでもグループ活動にする今の世の中は内向的な人間にとっては苦でしかないでしょう。そして、グループ活動が世の中を外向的にしているといっても過言ではないと思います。だからといって、私は今の世の中を批判しているわけではありません。グループ活動によって、人と関わることの大切さや、助け合いの精神が生まれます。最近では、コミュニケーション能力が低下している若者が多いと聞きます。本来、コミュニケーションというのは家族や学校、地域などの交流で培われるものでしょう。しかし、そういった交流の場が減少したのも事実だし、自ら人と関わろうとしなくなった人が増えてしまったことも事実です。だから、そういった解決策としてコミュニケーション能力を成長させるには、グループというものを大切にしていくことが重要だと思います。実際、学校や習い事の場で幼いころからグループ活動をしてきた人間というのは、周りの意見に耳を傾けたり、表現するということを学びます。そのようなことが出来る人間を、世間はいわゆる外向的な人間と言うのでしょう。そして、私にはケインさんが「内向的な人こそ世の中に必要だ。」と述べているように聞こえました。確かに、外向的な人間が内気な人を傷つけてしまうことがあると思います。実際に、日本でもそういったいじめが原因で自ら命を絶っている人はたくさんいます。でも、だからといって私は内向的な人こそ必要だとは思いません。一番最初でも述べたように、この世界に不必要な人なんかいないと思います。どんな場でも、内向的な人・外向的な人は必要で、バランスのとれた空間が大切だと思います。外向的な人ばかりが人をいじめるわけではありません。外向的な人がいじめを止めることだってできます。いじめだけでなくて、仕事においたって内向的な人の意見をとりいれつつの、外向的な人が他の誰かにそれを伝えることもできます。世の中というのはどんな場においても、完璧な平等は実現できなくても、それを目指そうとする思想とある程度の平等を実現させることが必要だと、私は考えました。



実際には内向的な方が成績が良く知識もある。内向的な人はもっと静かで落ち着いた環境にいるときに、生き生きとして能力を発揮できる。全人口の1/3から1/2は内向的。リーダーシップが必要な役割からは内向的な人はいつも除外されています。内向的な人は注意深く、大きなリスクは避けるという長所があるのに・・・・スーザンケインさんは、こんなことを話しています。でも、自分はこうは思わないのです。内向的であろうが、外向的であろうが一人ひとり考え方は違うし、性格も違う、だから大きく二つに分けて、こっちのほうがこういうときに結果を残しているというのはちょっとちがうのではないかとおもった。一つ言えるのがそれぞれのことを尊重して周りがこいつはこういうことができそうだな、ちょっとやらせてみよう。そういうことを外向的な、人が考えて内向的な人が自分の利点を生かす、そういう社会にしていくことがよりよい社会につながっていくのではないだろうかと思っている。だからいじめをなくすということに関しては、内向的な周りと付き合わない人間が、いじめられがちだが、外向的な人間が内向的な人間とあまりかかわらないことで、その人のことをわかってあげられていないのではないかと思う。だから周りの人はその人はどういう人間でどういう利点があるのか、そういうことを理解していくべき。



いじめられやすい人は大体が「暗い性格」の人です。例えば、本を読んでいる人、休み時間にクラスメイトと話さない人、下ばかりを向いている人。反対に「明るい性格」の人はいつも笑顔で、友達がたくさんいて、活発な人です。「暗い性格」の人は、いじめられやすい。ほとんどの人がそう思っていることでしょう。実際、私もそう思っています。「暗い性格」の人はいじめやすいのかもしれません。「暗い性格」であるがゆえに人間関係が薄く、助けてくれる友達、頼れる先生がいないこともあり得ます。また、そうなると頼れるのは自分の親だけになるかもしれませんが、「親に迷惑をかけたくない」という気持ちから、自分の悩みを自分の中に封じ込めて自分だけが抱えるものにしてしまうのではないでしょうか。イジメは「いじめる人間」と「いじめられる人間」、そして「傍観者」から成り立っていると思います。ひとつめとふたつめは常に存在しているものですが、みっつめの「傍観者」は私の考え方です。「傍観者」はただ黙ってイジメを見ている人のことです。「いじめる人間」を止めるわけでもなく、かといって「いじめられる人間」を助けたりすることもない人のことです。「いじめる人間」とよく同類に見られますが、私は違うと思っています。中には「我関せず人間」も確かにいますが、「止めたいけどできない」や、「助けたいけどできない」人もいます。ただ「止めよう」と言えば、何か現状を変えられそうなのに、なかなか言い出せない。言ったとしても、今度は自分が「いじめられる人間」になってしまうのではないか。という恐怖心があるのだと思います。「いじめられる人間」はクラスからの孤立を余儀なくされます。ひとりになったとき、自分のことを聞いてくれる人がいなくなります。自分の孤独感、恐怖感などなどのはけ口がなくなるのと同じです。だから「いじめられる人間」はそれらをため込んで、ため込んで、最終的に自殺をしてしまうのではないでしょうか。一般的に挙げられる例として、「勇気をもってイジメを止める」ことや、「いじめる人間にはっきりと言う」なんてことがあります。でも、そんなことは人間にはできません。できたら自殺者はもっと減っているはずだと思います。できないからこそイジメはなくならないし、これからもなくなることはないと思います。イジメ問題に対する解決策なんてものは存在しないと思います。「いじめる人間」が「いじめられる人間」をいじめるのに理由は様々でしょう。面白いから、ストレス発散、ムカつくから、何となく。「いじめる人間」だって確固たる理由でいじめているとは限りません。「いじめられる人間」もこれといっていじめられる理由があるわけでもありません。「いじめられるお前にも非はあるんじゃないのか」なんて言われても、こたえられません。だから解決策はありません。



内向的な人にも外向的な人にもそれぞれ長所や短所があるが、それはひとによってとらえ方が違うと思う。外向的な人が周りの人たちを仕切ろうとしていたら、ある人にとっては助かると思うかもしれないが、ある人は鬱陶しいと感じることがあるかもしれない。内向的な人が学校祭の準備などで頼まれた作業を黙々とやっているとしたら、ある人はなんでも仕事をやってくれて助かると感じるが、ある人は自分から仕事を探せばいいのにと思うかもしれない。相性もあるので人によって相手の長所や短所の感じ方はあると思う。だから外向的な人が内向的な人の長所に気が付けずに内向的な人を傷つけてしまい、それがイジメに発展してしまうケースが多いのではないかと感じてしまう。もしイジメが外向的な人同士でおころうとしたら、大人数対少人数でなければそれはケンカ程度ですむかもしれない。お互いに意見を言い合える人達同士だから。しかし、内向的な人は自分の気持ちを聞いてもらう間もなく傷つけられてしまう。そしてイジメから彼らを助けようとしている人も内向的な人物の場合、助けたいと思っている側も外向的な人に、やめろとは言えず、周りの大人にも言えなくなるのではないだろうか。わたしは外向的であっても内向的であっても、お互いを理解しようという気持ちがなくてはイジメは消えないと思う。外向的な人は自分の長所を生かして内向的な人ともっと関わってみたり、理解を深めようと交流してみるべきだと思う。きっと内向的な人の素晴らしい内面に気づくことができ、互いに成長できるだろう。内向的な人は自分の意見を大人数の中で発表したりすることを得意としないと思うが、自分の考えを少しづつ周りに発信できるように頑張ってみるのもいいことだと思う。そうすればきっと今までの自己の中の深い世界とは違った新たな世界が広がっていくと思う。TEDで「内向的な人が秘めている力」という講演をしたスーザン・ケインさんは「内向的というのは内気とは違います。内向的であるというのは、社会的なものも含め刺激に対してどう反応するかということです。外向的な人は多くの刺激を強く求めますが、内向的な人はもっと静かで目だ立たない環境にいるほうがやる気になり、生き生きとして能力を発揮できるのです。」「だからみんなが持てる才能を、最大限に発揮できるようにする鍵はその人にあった刺激の中に身を置くということなのです。」「しかし学校や職場が外向的な人に合った刺激に満ち溢れているのです。」などと言っていました。



イジメの原因はどこにあるのか?と考えたとき、考えられるのは「イジメをする加害者側」と「イジメを受ける被害者側」の二つが考えられる。しかし、どちらが悪いか考えれば当然悪いのは「イジメをする加害者側」だと思う。イジメの内容にも様々で、対象となる人を無視するなどの関わらないことや、対象となる人に暴力をふるったりする嫌がらせなどがある。無視されたり、暴力をふるうことになったもともとの原因が被害者のほうにあっても、暴力などの行為が対象に及んだ時点で暴力をふるったりしたほうが「加害者」、ふるわれたほうが「被害者」となる。加害者は暴力についてどんな理由を並べても、それは言い訳でしかない。暴力に正義はないからだ。加害者と被害者の間にある「何か」を暴力が円満に解決してるわけはなく、寧ろお互いのお互いに対する不満が増大していくだけである。では、どうすればイジメがなくなるのか?それは、一言でいえばとても簡単なことである。ただ、みんなで仲良くすればいいのだ。しかし、それが難しいからこそイジメはなくならないのだ。人にはそれぞれの好みがあるし、性格や相性など今更変えられないことばかりで、「仲良くしなさい」と言われたからってそう簡単に仲良くできるわけではない。些細なことで相手を傷つけて、知らないうちにイジメの対象になっている、なんてこともある。実際に、中学生のころ本州から札幌の学校に転入してきた友人は、「こんなに快くクラスに迎え入れてもらえると思ってなかった。」と私に言った。私の経験では、転入生は「注目の的で、最初はみんなにちやほやされる」という印象になっていたが、本州では違うようだった。転入生はまずみんなから距離を置かれて、イジメの対象になってしまうということも少なくはないようだった。地域ごとのイジメに対する考え方はそれぞれで、私の通ってきた学校は、小学校も中学校も、もちろん高校にもイジメはなかった。そんなことをする勇気がないし、意味がないと思っているからだ。そういう考え方をしているのは、親や学校の教育で「イジメはやってはならない」と、何度も何度も言い聞かされてきたからだ。だから、子供の小さいうちから「イジメ」に関する深い知識を教育しておく必要がある。子供が言葉を理解する前、ほどんど洗脳する形でもイジメは絶対にしてはいけないことを伝えておけばよい。意味を理解しなくでも、それが頭に入ればイジメなんて誰もしなくなると思う。イジメ被害者の自殺は、単なる被害者の「自殺」ではなく加害者による「他殺」なのだ。これをみんなが意識していけば、人に対する接し方も変わると思う。



スーザン・ケインさんのプレゼンは内向的は人にとっては勇気づけられる内容だったと思います。今日の社会は外向的な人が求められているから内向的な人にとってはつらいものではないかと思います。プレゼンでは内向的な人には外向的な人には無い力を持っていてその力はこれからの社会においてきっと役立つものばかりだと言っていました。このプレゼンと現代のイジメ問題の関係を考えてみると苛められている人は内向的な人が多いのではという推測ができると思います。内向的な人は外向的な人に比べて自分の思ったことをすぐに言わない、他人に合わせる、目立ったことはなるべくしないなど少し消極的な部分があります。(内向的な人がみんなそういう性格だと決めつけているわけではなくて、そういう人が多いんじゃないかということ。)一方、外向的な人は他人との関わり方が上手、自分の意見、考えを伝えられる、など今の世の中で必要だと言われている能力を多く持っていることが多いです。プレゼンでは「創造性や主体性は何か社交的な場から生まれる」と言っていたように今社会で求められているのは、外向的な人が持っているような能力です。内向的な人は「ダメ」、「よくない」、「性格を直さなければならない」というような雰囲気になっていると思います。子供は周りの環境に左右されやすいので、そういった風潮にのみ込まれて、あまり輪の中に入ってこない人をいじめの対象にしてしまうのが、多くのイジメの原因ではないかと思いました。初めからいじめようと思っていじめていたというより、初めは仲良くしていたけどある時を境にだんだんとイジメに発展していったというケースもあると思います。それは内向的な人が周りの外向的な人に馴染めなくて輪から外れてしまったのではないかと思います。なぜ、そのようなことが起きるのか。それは、やはり周りの環境が大きな原因になっているのではないか。さっきも書いたとおり、今の社会は外向的な人を求めている。子供を外向的にさせる教育をしている。だから、先生も内向的な子供の良さを分かってあげられない。分かったとしてもそれを発表させる場がない。そういったことからイジメができる環境が整ってしまうのだと思います。どうすればイジメはなくなるのだろうか。内向的な人が活躍できる場を作ればいいのではないだろうか。内向的な人を目立たせるということではなく、その人がやりたいと思うことをやらせればいいと思います。内向的な人が考え、作り出したものを外向的な人が周りに発信するという形でも世の中が成り立つと思います。すべての環境がそうなれば自然とイジメが減るのではないでしょうか。イジメは許せないものです。人の命がかかってることです。一人でも多くの人がいじめから救われてほしいです。このプレゼンを見て勇気づけられる人がいてほしいと思います。できれば自分は内向的だからこうとか外向的だから大丈夫だとかそう思ってほしくないと私は思いました。何も考えずにこうだと決めつけることはよくないと思うからです。



僕はいじめの問題はよくないことだと思います。今現在いじめによって日本では多くの人が嫌な思いをしています。中にはいじめが原因で学校に行けなくなったり、自殺に追い込まれてしまうこともあります。いじめが原因で自殺する人は年々増えている傾向にあります。では、なぜいじめられて自殺にまで追い込まれるのでしょうか。それは学校側にも原因があると思います。いじめが原因で自殺した人の中にはいじめられていることを教師や親などに言えなかったという人もいます。それは、学校側がいじめに気付いてあげることができれば、その自殺は防げたのではないでしょうか。今では学校で、いじめに関するアンケートやいじめられているかの調査などがあります。しかし、それだけで本当にいじめの問題が解決するのでしょうか。現状ではいじめの問題はまったく解決していません。いじめの問題を解決するにはもっと教師側が生徒たちとコミュニケーションを図り、学校内でのいじめについて正確に把握しておく必要があると思います。また、いじめている人本人たちにはいじめているという自覚がない場合もあります。ただなかよくからかっていただけでも、やられていた人はつらいと感じている可能性があります。そのことを含めて教師たちが学校内での人間関係を正確に把握しておくことが何よりも大切だと思います。また、いじめが現在深刻な問題になっているということをもう少し生徒たちに警告するべきだと思います。日本ではいじめの問題による死者が年々増え続けています。生徒たちが自覚していない内にいじめに発展していたら防ぎようがありません。なので教師たちはもう少し、生徒達にいじめの問題についていろいろなことを教える必要があると思います。また、いじめが原因で自殺に追い込まれた人の中には、生徒が教師に相談していたにも関わらず、教師がそれについて何もせずにいた結果生徒が自殺してしまったという事例もあります。生徒が教師に相談していたにも関わらず、自殺にまで追い込まれてしまったというのは論外だと思います。教師がいじめている人に対してただしい処置を施していれば、防ぐことができた自殺だと思います。生徒にとっては頼ることのできる唯一の存在なので、こういうことにはなってほしくないと思います。現状のいじめの問題による自殺は教師側がきちんとした対応をしていれば事前に防げていた場合が多いです。教師は生徒に対して、もうすこし真剣になっていじめ問題の減少に努めるべきだと思います。教師がいじめの問題に対していじめはいけないことだということを生徒側に何度も伝えることによっていじめの問題は減るのではないのでしょうか。僕が小学校にいたころはあまりいじめの問題については何度も注意されるということはありませんでした。いじめの問題というのは生徒たちと教師側の人たちが細心の注意を払い続けていれば防げる問題なのです。教師がまず学校で起こっている生徒たちによるいじめについてを正確に把握し、注意し続けることによって防げる問題です。いじめの問題は現在の日本ではとても深刻な問題になっているのでぜひ教師側の人たちにはいじめの問題について生徒たちやその保護者たちに何度も警告し、いじめの問題が二度と起こらないような世の中になってほしいと思いました。



解決策、あるとすればそれはいじめ以上に非人道的なことになると思う。今回のプレゼンは内向的な人の中にある大きな世界を使うみたいなことらしいが、そもそもそれが出来ないから内向的なのだ。これはもう本末転倒でしかない。ここでよく出そうな意見で、周りに人に助けてもらえばいいというのがあるが人が本当に救われることなんて内向的な人からしたらないのだ。いろんな人の話を聞きアイデアを探るとあったが内向的な人はその話し合いからして普通にすることが出来ないのだ。根が暗いんだから最終的には何もしようとしなくなる。これでは評価しようがない。で、外向的な人だがこっちはいい人か悪い人しかいない。仮に内向的な人を0としたら彼らはプラスかマイナスと言ったところか。そして多分世界には悪い人のほうが多く存在してる。いじめが起こるのは分かり切ったことであってそれを止めることも出来ないだろう。始めにいじめ以上に非人道的なことになると思うと述べたが、これはいじめが起きなくなるということは、個性がなくなることだと思うからだ。コンピューターの間にいじめは起こらない。もちろんいじめをするような個性はないほうがよいがこれは人の良い面も全て関係なく理不尽に消し去ってしまうことなのだ。逆に言うとそうでもしないといじめはなくすことが出来ない問題だということだ。子供のいじめを形式的に止めようとする大人の内でもいじめはある。どんな集団でも起こりえる、起こっているこの問題。世界中に蔓延しているこの問題を私は事実上解決策などないと考える。



2ちゃんねるを見ることが趣味であり、世界情勢について人類で最も敏感な加藤先生「人間には人前で目立つのが好きな外向的な人と、本を読んだりするのが好きな内向的なひとがいるんだよ。いじめの標的にされるのはどっちだ?友達がいっぱいいる人気者が狙われるか?違うんだよ。一人でいる内向的な人が狙われるんだよ。でもスーザンさんは内向的な人にはとても大きな世界があるっていってるから内向的な人は死んじゃだめなんだよ。だから動画動き始めるまで自分なりのいじめをなくす方法書いとけ。」とおっしゃっていたので、書きます。僕は、相手の嫌がることはしないという言葉を幼稚園などでよく耳にしました。いじめをなくすということはこれを徹底することだと思います。簡単に言っていますが、今の僕にはこれしか思いつきません。いじめを受けている人は何も悪くないのですから、いじめをしている人が自分の恥ずかしい行為をあらため謝罪する必要があります。みんなが相手の嫌がることをしなければ、最初からいじめなんて起こりません。スーザンさんの「気を散らすものから離れ自分の思索にふける時間を増やしましょう」という言葉はいいと思います。落ち着いて自分のことを考える時間は必要です。



今回のプレゼンを聞き、自分はスーザンさんの意見に賛成することができませんでした。内向的な人が素晴らしい力を持っていることはよくわかりました。ですが、いくらすごい力を持っていても内向的なままではその力は発揮できないと思います。 例えばその内向的な人がすごい作品を作り上げたとします。しかし、その人が内向的なためそれを周りに伝えることもできずにその作品はなかったことになってしまいます。なので、自分はこれからの日本を支えていくのはやはり外向的な人だと思います。しかし、内向的なのがダメだというわけではありません。内向的な人には内向的な人のいいところがあると思います。スーザンさんの言っている内向的な人が秘めているパワーもその人がどう使うかが重要なんだと思います。外向的な人が内向的な人が秘めているパワーを認め、お互いによく理解し合うことがイジメ問題に対する解決策だと自分は考えました。



人には内向的な人と外向的な人がいます。現在大きな問題になっているいじめ問題。どんなときも明るく、人づきあいが上手な人が外向的な人。1人で本を読んでいたり、少し人前にでるのが苦手な人が内向的な人です。教室や職場などたくさんの人がいる中で1人きりで座っていたり、誰とも会話をしない内向的な人を見て、外向的な人はきっと不思議に思うでしょう。逆に内向的な人はたくさんの人の輪に簡単に入っていける外向的な人を不思議に思っているのです。こうした2つのパターンの人間がいるからいじめはおこってしまうのではないでしょうか。いじめられる側の多くは内向的な人です。外向的な人のパワーに圧倒されてしまったり、自分の言いたいことをうまく伝えられないことだってあります。外向的な人が悪いというわけではありません。もっとお互いがお互いの個性的な面をわかりあえば、世界は少しでも平和に変わっていくはずです。例えば、外向的な人が内向的な人を人がたくさんやってくるパーティーに誘ったとします。内向的な人は迷った結果それを断りました。外向的な人は誘いを断られて、せっかく誘ったのにどうして…とか、人づきあいの悪い人なんだなあ、もう誘わないなどと思ったりするでしょう。しかし、内向的な人が誘いを断ったのはそんな理由ではないのです。内向的な人はたくさんの人のなかに入っていくのが苦手な人が多い傾向にあります。行きたかったとしてもあとひと踏ん張りの勇気が出せなくて断ってしまったという場合があります。だから決して人づきあいが悪いだなんておもわないでください。もし機会があれば2人きりや顔なじみの少人数の食事などにもう一度誘ってあげてみてください。そのお誘いにはきっと、内向的な人も来てくれるはずです。これは、例えだったのですが、いじめ問題に置き換えて考えたとしても同じことがいえるのではないでしょうか。みんながボールを持って外に遊びに行っている中で、教室で1人で本を読んでいる子がいたっていいじゃないでしょうか。その子はボール遊びをするよりも本を読んでいるのが好き。ただそれだけのことなのです。無理に遊びにつれだして鬼っごっこで1人狙いをしたりとか、ずっと鬼にさせるとか、そんなひどいことは絶対にしてはだめなことです。内向的な人があまり意見を言ってこないからといって言いなりにしたりするのもだめなことです。口にはだして言ってこないだけであって、ちゃんと自分の意見を持っています。その意見を聞くこともなく潰してしまうなんて、なんてもったいないことなのでしょう。その意見のなかに成功する鍵があふれていることにみんなはやく気づいてください。ちゃんと意見を聞いてあげてください。もっと世界全体が明るくなるはずです。内向的なひとの意見は世界にもっと評価され賞讃されるべきだといっていたスーザンさんの意見の通りだと私も思います。



いじめは、いじめられる側にも問題があるとよく言いますが、そこに注目したいと思います。(1)明らかにいじめられる側にも問題がある場合、この場合に関しては、周りの人間が助け船を出す必要はないと思います。自分たちで解決するか、先生にたすけをもとめればいいだけの話だと思います。また、この場合はいじめではなく、長期にわたる喧嘩だととらえるのが妥当だと思います。(2)いじめられる側には問題がない場合、周りが解決策を考えなければならないのは、この場合のいじめに限られると思います。いじめる側の感覚で、ただなんとなくむかつくからとか、見た目とか、そんな理由でいじめられている人を周りは助けるべきなのです。学校で行われているいじめは、把握できるのは周りの生徒と先生だけです。だから、先生が中心となって解決するべきなのです。しかし、先生がいくらいじめをなくそうと注意したって、いじめはなくなりません。なので、生徒に注意を呼び掛けるのではなく、先生方の指導力を向上させるべきだと思います。具体的な解決策は、例えば、いじめの内容と同じことを、いじめる側にする、とか。きっと、仕事で私を知っているひとからは、私が「自分は内向的だ」と言えば、多少なりとも「え、そう???」というリアクションが返ってくる気もする。仕事柄たまに開催を手伝うワークショップなどではオーガナイザーの一人としてみんなの前で少し話したりもするし、一見、社交的外向的風な動きは自分でもしているなぁ、と、幽体離脱してるような位置から自分自身を見ている自分は認めている。その場になれば、流れでそんな動きもしてるしできるのだけれど、もう本当に、できればその役回りは勘弁してほしい、心からそう思っています。内向的な人は、社会的外向的に見えるように取り繕わなければならないのが、大変だと思います。このことでストレスがかかり、自殺に。という悪循環もありうるので、社会全体で、内向的な人をサポートしていく必要があるのではないかと思います。



プレゼンを聞いて思ったことがあります。「苛められる側」の人々の性格、人間性のだいたいは、ニュースなどによると根暗そうな人々だったり、あまりはしゃぐような人ではない感じがします。あまり目立たない感じの人々が狙われてしまう。だけどスーザンさんのプレゼンを聞いて、そのように雰囲気だけの感じで「内向的な人」を失い続けている今の日本は、本当にバカバカしいし、もったいないし、いろんな思いが込み上げました。内向的な人には、内向的じゃない人々とは違うような世界観があり、価値観があり。仕事によっても内向的な人を必要とする職場も多々あります。なので、内向的な人は確かに珍しいとは私も思ってしまう時もありますが、だからといっていじめのターゲットに選ばれるとしてはおかしいと思います。内向的な人は、もしかしたら内向的じゃない人よりも自分の意思を強く、固く持っているかもしれないし、逆にフラフラしているような内向的じゃない人が人をいじめる権利なんてあるのだろうか。と思いました。このことに関しての解決策としては、やはりまず第一に内向的じゃない人々が内向的な人々の人生観、価値観、さまざまなことを理解するべきです。それは同じく、内向的な人々も内向的じゃない人々はなぜあんな感じなんだろう、とか思わずに、お互いがお互いを理解しあい、さまざまな人生観がある。ということを踏まえておくべきです。今、内向的じゃない人が内向的な人をいじめているとしたら、私はこのことを伝えたいですね。内向的な人は、みんなの輪と離れたいとか、反抗的態度を示しているだなんてことはないんだよ。ってことを。彼らなりの「楽しいこと」が存在していて、別に内向的な人もそうじゃない人も、人生がつまらないわけではないと思います。スーザンさんもそのような笑顔をしてました。スーザンさんも自信が内向的であると言ってますが、プレゼンだって練習したと言ってますが普通に喋れてます。プレゼンだって面白いです。彼女が今の人生を楽しんでそうに見えます。だから「理解しあうこと」の大切さを改めて感じました。非内向的の人が内向的の人をいじめるケースが多い傾向も、内向的な人は将来に役立つかもしれないことなどを理解するといいと思います。今までは非内向的な人の改善点を述べましたが、逆に内向的な人の改善点もあります。それは、「自分は内向的だからいじめられるんだ」などと思わないこと。そしてよく「なんでいじめるの」と問いかけたことにより、たったその一言だけでいじめがなくなった、というケースも耳にします。内向的だからこそとても勇気のいることだとは思いますが、それに耐えてしまった結果、自ら命を絶つ結果になってしまってはいけないです。自分の命を絶つくらいの勇気があるなら、苛めてる側へ何かしらの不満を述べたほうが、違う未来へつながるかもしれないです。苛められている人はよく自分を「孤独だ」と思いがちですがそんなことはない。家の人だってその人の見方になると思うので…。だから周りの方は「いじめ」の現実に早く気付き、自殺に追い込むことのないようにするべきです。でも、個人的に自殺へ追い込むのは、「苛めている人が原因」だとは思いますが、周りで見て見ぬフリをした人や事実を隠した大人などにも責任があるのです。東日本大震災で2万人の方がなくなった一方で、日本の年間自殺者数は3万人程(?)と聞きました。震災の被害も大変ですが、日本での年間自殺者数がこんなにも多いのは驚きです。もうそんな人を増やさないようにするためには、内向的、非内向的の人に限らず全国民がネガティブに考えすぎず少しは明るく物事を考えてみるべきです。



スーザン・ケインさんのTED・TALKを聞いて、衝撃を受けました。私は、学校や職場が集団で行動することを学ぶものだと思っていたからです。日本では就職難がよく取りざたされていますね。企業が求めるもの第1位は「コミュニケーション能力」だそうです。自分にはコミュ力ないなぁ・・・と思っていたので若干落ち込む反面、そりゃそうだ、仕方ない、とも思っていました。しかしスーザン・ケインさんのTED・TALKを聞いて考えが変わりました。企業が求めるコミュニケーション能力というのは、つまるところ外向的な人そのものでしょう。思い切った発言ができたり、リーダーシップやカリスマ性に富んだ人・・・。さて逆説ですが、スーザンさんの話とこのことを混ぜると、「コミュ力を求める企業は伸びない」と、そういう言い方もできるのではないでしょうか。内向的な人を求める企業こそ、真に伸びる企業と言えるでしょう。次に学校の話です。私たちが毎日行かなければならない学校があります。なぜ行かなければならないのでしょう?。「勉強をするため」という人がいます。それは学校に行く理由ではないですよね。家でも勉強はできますし、世紀の天才は多くそういった人物だったと記憶しています。ちなみに私は、望んでこの学校に来たわけではありません。たまたま自分の学力に合っていたというだけです。理由はそれだけです。私以外にも多いでしょう、そういう人は。つまり、惰性で高校に通い始めた人がかなり多いというわけです。理由はないのです。生まれた時代がそういう制度だったというだけなのです。日本では高校進学率はほぼ90%におよび、それが当たり前で、そうしなければ生涯収入の差が激しく生まれます。高校と大学にも同じことが言えるわけですが、割愛します。そして外向的な人が求められます。学校でも、職場でも。それが正しいと思って生きてきました。だってそうでしょう?考えを持っていても、それを表現できなければ存在しないと同義ですから、認められるわけはないと。そのことを違う第三者のせいにすれば、間違いなく逆に叩かれるでしょう。そんな世の中でそう思わない方がおかしいはずです。しかし・・・、この考えで卑屈になり、自己嫌悪に陥ることこそ、私が犯したミスなのかもしれない、と感じました。スーザンさんは、最初周りに同調し、外向的な生き方をしようとしつつも最後には内向的な自分を「自己」として認めていて、それがTED・TALKでもよく表れていました。私は普段から物事を客観的に見て、多数少数関係なく意見を吟味しようと努力しています。でも、知らないうちに私も「多数を求める側」になっていることに気づかされました。しかし支持され、慕われる人というのは、そういう人ではないということですね。これからは内向的な自分を認めて、そして他の内向的な人を認められる人になっていかなければならない。これが私の結論です。



スーザン・ケインさんの意見を聞いて、内向的な人のほうが可能性を秘めている。というのをはじめて知った。外向的な人とは、他との関係を積極的にはぐくむ人で、内向的な人とは人とかかわるのが得意ではない人のことだと思う。一見聞いただけでは、外向的な人のほうがよく見えるが、内向的な人にも良いところが多くある。それを履き違えてしまうから「いじめ」が起こり、未来への可能性が大きくあるのにもかかわらず命を絶ってしまうのは非常にもったいないことだと思う。その履き違いを減らすためには、外向的な人が外向的な人同士で意見を交わすのではなく、内向的な人の意見を積極的に取り入れることが重要だと思う。中身をみないまま、先入観で人を判断するからそういう「いじめ」ということが起こるのだと思う。だからこそ、人前で自分の意見をはっきりと述べる場を多く作ることで、外向的な人の意見と内向的な人の意見がぶつかり合い、交わることで素晴らしいものができると思う。しかし外向的な人は、他の人とにかかわりだけでなく、内向的な人のように自分と向き合う時間に多く費やすべきで、結局は自分の内向的な部分と外向的な部分のバランスをとれる人が最高だと思う。しかし人間だものそうはいかない。だからこそ友達や先生など周りの人がいるのだから他を理解し意見を交わらせることを大切にしていきたい。



僕はパソコンが壊れててTEDなるものを見ることが出来なかったので、イジメ問題について自分なりの考察や思ったことをここのメールに書き留めておこうと思います。まず、イジメ問題においてもっとも重要なのが被害者。つまり、「いじめれる側」です。「いじめれる側」がいじめれる原因はなんなのでしょうか?まず、第一の理由としてあげられるのは加害者。つまり、「いじめる側」に問題があると思います。いじめる側は単なる自己満足やストレスの発散、気に食わない、いじめてみたいという興味本位などの理由で他人をいじめています。これって理由としてはありなのでしょうか?いえ、良い訳がありません。個人の勝手な理由で、何も悪いことをしていない他の他人をいじめて良い道理なんかある訳ありません。しかし、今の時代はそんな不条理で理不尽なことがまかり通る世界なのです。こんな歪んだ世界は変えるべきです。変えるのはほかの誰でもない。あなたです。その状況を変えるには勇気がいりますが、一歩踏み出さなきゃ行動力のある人間になれません。罪悪感しか残りません。それに、あなたの心の奥底に眠っている良心が傷つきます。それでは人の痛みを分からない人間になってしまいます。そんなんで良いのですか?いや、良い訳ありません。あなたがこの世界変えるのです。you can do it. (オバマの言葉を本文に引用しました。)



いじめが起こる原因としては、2通りあると思います。一つ目は被害者に周りが不快に思う問題があった場合です。たとえば嫌われるようなことを日常的にしてるとか、不潔であるとかです。誰でも苛々することはあると思います。その苛々が発展していじめに繋がるのだと思います。この場合、被害者が気をつければ正すことができることのほうが多いように思います。私が小学生だったときは、この場合のいじめがありました。子供というのは容赦ないので平気で人前で罵ったり、突き飛ばしたりしたりで色々悲惨でした。一度ついたイメージは中々抜けず、改善されたとしてもしばらくは扱いは変わらないと思います。だけど、改善しようという意思がなければそもそも改善されないので、いじめから抜け出すことはできず、周りも助けてあげよう、という気持ちがわくことはないでしょう。行き過ぎたものは「いじめ」と呼ばれ絶対に許すことのできない犯罪になりますが、因果応報、自業自得という言葉がありますし、人にも好き嫌いがあるので多少は仕方のないことかな、と思います。越えてはいけないラインを考えるべきです。そして自分が不快に思ったりしてもそれを周りに飛び火させてはいけません。周りも不快に感じる人は感じるし、感じない人は感じない、それを弁えて話せばよくある「愚痴」で留まります。二つ目は加害者に悪意があって被害者をいじめる、



いじめをなくすには、どうすればいいのか。まずは、家庭環境をしっかり整えることだと思う。子供は、小さいときに育ってきた環境によって、人格が形成される。まずは、歪んだ人格の基盤を作らせないということ。そのためには、両親が、「自分たちは親であって、子供をしっかり育てなければならない」という親としての自覚をきちんと持つことが大切である。現代、ノイローゼになって育児放棄をしたり、または産まれてすぐに自分のもとから手放してしまうケースがとても多い。私は出産も育児もしたことがないのでそれらがどれほど大変なのかは全くわからないが、けれど出産をするということはそういう困難やとてつもない苦労も乗り越えていくという覚悟をしたうえでの行為だと思う。一人の人間の命を成長させていくのだから、もちろん簡単なことじゃないということくらいはわからなければいけない。小さいときに、両親が子をたくさんたくさん愛して、可愛がって、すこし大きくなったら“いいこだね”と褒め、“ダメなことはダメ”だと叱る。これだけのことなら一見容易なことにも見えるが、毎日毎日いうことの聞かない子どもに対してだと、大変なときもあると思う。けど、こういう“愛して躾ける”というすごく基本的なことを、純粋にしっかりできる両親であれば、子どもはきっとそれをきちんと理解できるような人に育つと思う。このように、いじめをなくすためのキーワードは、まず、「両親・家庭」であると思う。そしてふたつめのキーワードは「学校」。いじめ問題は、大半が学校で起きている。日本では小学校・中学校は義務教育なので、ほとんどの子どもが毎日通っている。何のために学校に行くのか?それは、国語数学など、社会に出て仕事をするようになってから必要になる基本的なことを学ぶためでもあるが、一番の理由は“たくさんの人の中で生活することで、人とともに生きていく力をつけていく”ことだと思う。これは、同じく社会に出てから必要になるもっとも重要な項目だと思う。幼稚園や保育園などに通う子どももいるが、小学校は、まずその力をつけていくための第一歩となる場所。そのような場所で、いじめが起きてしまう原因は何だろうか。まずは、第一歩だからこその子どもの無知さがあると思う。たとえば、自分の家庭だけで育ってきた子どもは、まだ「世界にはいろいろな人がいる」ということを知らない。少しでも自分や自分の周囲の人間と違うようなところがあると、その子に対して「変な人」という見方をしてしまうのもしかたない、当然なのだと思う。なぜなら、まだ“知らない”だけだから。けれど、そういうときにカバーをしなければならないのが、学校の先生というものだ。学校の先生は、教科だけではなくそういう面でも子どもに“教える”仕事なのだと、私は思う。人は一人一人違って、それぞれに個性があって、どの個性もとても素晴らしいもの。踏みにじっていい個性なんてひとつもない。ということを、子どもたちにわからせてあげなきゃいけない。学校という新しい環境、新しい世界は、それを知るための場所なのだと思う。そして先生は知らせるのが役目。このようにして、いじめをなくすためには、小さいときの周りの大人たちがとても重要になってくると思う。スーザン・ケインさんの「内向的な人が秘めている力」というプレゼンを聞いて。とても印象に残ったのが、最後のほうにスーザンさんがリスナーに行った、「3つの行動の呼びかけ」。これらを意識してこうと思った。



いじめ問題への解決策ということについてだが、スーザン・ケインさんのプレゼンを聞いて内向的な人と外向的な人とがいじめについて深く関係しているということが分かった。外向的な人はいじめられることはほとんどないとは思う。内向的な人ほどいじめられやすく、気弱なために誰にもそのことを言い出すことができなくなる。周りの人は外向的な人に対して注意することができなくなってしまう。そのためいじめは長く、そしてエスカレートしていくのだと思う。外向的な人は集団の中心にいることが多いと思っていて、ことの発端はその集団に入っていくことができない人との間に起こると考える。しかし、内向的だからと言ってだめではないと思う。the key then to maximizing our talents is for us all to put ourselves in the zone of stimulation that is right for us.(みんなが 持てる才能を 最大限に発揮できるようにする鍵は その人に合った刺激の中に 身を置くということなのです)プレゼンの中にあった言葉で、人それぞれ考えの違い、得意不得意などが必ずあって、内向的な人が活躍する場というのもある。たとえば、内向的な人の場合は、一人で淡々と仕事をこなすということが得意な人が多く、自分の意見を反映して思った通りのものが作られる。逆に外向的な人はたくさんの意見を取り入れようとして、一つの意見の反映力が薄いはず。個人でその人それぞれ長所を生かせる場所にいることが大切だと思った。それが一番の解決策だと思った。

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